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東京大学附属図書館アジア研究図書館
上廣倫理財団寄付研究部門
Uehiro Project for the Asian Research Library

COLUMN

鶴亀橋の擬宝珠―近世の対馬と神奈川宿とを結ぶ?―

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冒頭からまったくの私事で恐縮だが、2009年、私は結婚を機に長らく世話になった両親の住む実家を出ることになり、神奈川県は横浜市神奈川区の東急東横線反町駅――駅名は四代目相棒の「そりまち」ではなく、「たんまち」と読む――近くの小さなアパートに引っ越した。実は私の実家も反町駅の隣駅近辺にあり、反町駅からはそれほど遠くはないのだが、私は反町駅周辺はほとんど訪れたことがなく、まったくの不案内であった。そこで、引っ越したばかりのある休日、アパートの近くを散策してみることにした。

私が新居に定めたアパートは、反町駅からほど近い松本商店街沿いにあった。散策のためにアパートを出た私は、ひとまず松本商店街に並ぶ店舗を見学しながら、商店街を抜けてみることにした。商店街の終わりまで来たところで、何気なく右方に歩を進めると、昔の橋の擬宝珠(ぎぼし)と思しきものが目に入ってきた。

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近づいてみると、その傍には「鶴亀橋跡」という横浜市教育委員会の看板が立っていた(なぜか現在は撤去されている)。

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その看板の説明によれば、鶴亀橋は、江戸時代初期、三ツ沢の豊顕寺(ぶげんじ)道に流れていた川に架けられた木橋であったという。しかし江戸時代初期という造営年代の根拠となっているのは、そこに遺されている擬宝珠(ぎぼし)に刻されている銘文のようであった。

 

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島主宗侍従義成
営創施主
以酊奄規伯叟玄方
于時寛永四年丁卯
五月吉日
大工
賀瀬文右衛門尉智正
落[賜?]
藤原清兵衛尉成次作

 確かに、擬宝珠の銘文によれば、鶴亀橋は江戸時代初期の寛永4年(1627)5月に造営されたことになる。そして、その造営に当たっては、「島主宗侍従義成」および「以酊奄規伯叟玄方」なる者が施主となったとされている(銘文からは、どちらが施主なのか、あるいは両名とも施主なのかがはっきりしないが、ここではひとまず両名が施主となったと解しておきたい)。

ところで、横浜市教育委員会の看板の説明には、両名がどのような人物なのかについて一切記されていない。だが、近世日朝関係史に少しでも興味のある方であれば、はて、どうしてこんな所に両名の名前が記されているのか、という疑問が驚きとともに沸いてくるのではなかろうか。少なくとも私はそうだった。

これ以上もったいぶっても仕方ないので、答えを明かせば、「島主宗侍従義成」とは、対馬島(現長崎県対馬市)第20代島主・対馬藩第2代藩主の宗義成(そう  よしなり)、「以酊奄規伯叟玄方」とは、対馬島の以酊庵(いていあん)で対朝鮮外交を担当した外交僧の規伯玄方(きはく  げんぼう)のことである。従ってこの擬宝珠の銘文によれば、玄海に浮かぶ対馬島の島主とそのお抱えの外交僧が、遠く武蔵国に流れる川に橋を架けたことになるのである。

しかしながら、銘文にはこの擬宝珠が当初から鶴亀橋のものであったことを示す記載はなく、本来は対馬島内もしくは本州の別の場所にあった橋に取り付けられていた擬宝珠が、いつしか何らかの理由で鶴亀橋に転用された可能性、換言すれば、実は鶴亀橋は宗義成と規伯玄方が造ったものではなかった可能性も排除できないようである。では、真相はどうなのであろうか。

鶴亀橋が宗義成と規伯玄方を施主として造営されたのであれば、それは義成が江戸参府の途上で東海道の神奈川宿に滞在した際であったと見るのが自然であろう。果たして、寛永4年の義成の動向を調べてみると、確かに義成は江戸に参府している。

寛永4年は西暦で1627年に当たるが、同年は朝鮮において丁卯胡乱(ていぼうこらん=後金による第一次朝鮮侵攻)が起こった年であり、江戸幕府から対朝鮮外交の調整役を任されていた対馬藩は内外への対応に追われることになった。すなわち、対馬藩は丁卯胡乱の勃発を知るや、朝鮮に使節を派遣して武器輸送と援兵派遣を申し入れ(同年2月)、朝鮮から後金軍「平定」の報を受ける(同年3月)と、それを祝賀する使節を朝鮮に派遣するとともに、藩主の宗義成が自ら江戸に参府して、丁卯胡乱の顛末を幕府に報告している。

さて、宗義成が幕府に丁卯胡乱に関する報告を行ったのは寛永4年11月8日のことであったが、『宗氏家譜略』という史料によれば、義成は同年9月には江戸に在府していたという。ここから逆算すれば、義成の神奈川宿の滞在は8月~9月のことであったと考えるのが自然であろう。だとすれば、少なくとも5月に神奈川宿に義成が滞在していたとは考えがたい。また、鶴亀橋は現在の国道1号線付近にあり、ほぼ国道15号線沿いに延びていた神奈川宿辺りの旧東海道からは、西側にかなり外れた所にある。以上のことからすると、やはり義成が寛永4年の江戸参府の途上で神奈川宿に滞在し、その際に鶴亀橋を造営した可能性は極めて低いように思われる。

しかし仮に――以下はほとんど妄想の領域である――寛永4年3月に義成が朝鮮から後金軍「平定」の報を受けた後、直ちに対馬を出立したのであれば、義成が神奈川宿に5月に到着したということはあり得ないことではない(対馬から江戸までは、早ければ1ヶ月半ほどで移動できるであろう)。そして、5月に神奈川宿に到着した義成は、幕府への報告内容の吟味、あるいは体調不良など、何らかの理由で数ヶ月の間神奈川宿に逗留することとなり、近隣住民の世話になる代わりに、神奈川宿付近の豊顕寺道に鶴亀橋を造営してやることにした、などということもあったかもしれない。

以上、今から6年も前にたまたま見つけた「鶴亀橋の擬宝珠」について愚考を巡らせてきたが、江戸時代初期に対馬島の島主宗義成が神奈川宿近くの川に鶴亀橋を架けたということが、果たして史実なのかどうかについて、これといった判断を下せるはずもなく、それは依然として謎のままである。しかし日朝関係史の研究を志し、思いもよらず、鶴亀橋跡に近接する小さなアパートで新たな生活を始めることになった身としては、鶴亀橋跡が近世の対馬と神奈川宿とのささやかな交流を現在に伝える遺跡であってほしいと思う次第である。

※参考文献
・田代和生『書き替えられた国書』(中公新書、1983年)
・米谷均「一七世紀前期日朝関係における武器輸出」(藤田覚編『十七世紀の日本と東アジア』山川出版社、2000年)
・神奈川東海道ルネッサンス推進協議会編『神奈川の東海道(上)―時空を超えた道への旅』(神奈川新聞社、1999年)
・泉澄一『対馬藩の研究』(関西大学出版部、2002年)

特任研究員 木村 拓