ベトナムの地誌:フィールドワークに出かける前に

ベトナムの地誌:フィールドワークに出かける前に

U-PARL特任研究員
澁谷 由紀

地誌の利用価値

地誌(地志とも書く、ベトナム語でđịa chí)とは、ある地域の歴史・地理・風俗・人物等の状況を総合的に記録した資料で、中国の地方志に相当する。ここでは漢喃資料は別に措き、主に1945年以後に発行された、多くはĐịa chí XX(XX地誌)Địa chí văn hóa YY(YY文化地誌)といったタイトルを持つ現代ベトナム語の書籍について紹介する。

地誌は省レベルで編纂されたものが多いが、県レベルや社(行政村)レベルを範囲としたものも少なくない。基本的にはその地域に関する総合的記述を目的とした書物であるために、地誌の編纂がどのレベルであろうと、社(行政村)や、場合によってはその下の集落レベルまで網羅的に何らかの情報が記されている。

私たちがある地域に関して研究する場合、それがどのような手法や視角による研究であろうと、対象地域に関する基礎的な情報(自然条件、歴史、現在の社会経済状況など)の収集は欠かすことができない。そのような情報は、一見すると直接研究対象の地域を訪問して収集するのが最も早く、質量ともに良い資料が得られるように思われる。しかしながら実際は、現地ですべての情報収集を行うことは効率的でもないし、場合によっては不可能である。

たとえばフィールドワークを行う場合を考えてみよう。フィールドワークの実施手続きは、調査地や調査内容によって一様ではないが、通常、調査開始時や調査中に省レベルの各行政機関や、社(行政村)レベルの各行政機関を訪問し、協力に対する謝意を伝え調査の主旨を説明したり、基礎的な情報の収集を行ったりする機会がある。しかしながら、訪問先の機関の担当者が調査者の知りたい情報を熟知していない場合も想定される。また書面による情報公開がなされるとは限らない(著者がある省の機関でインタビュー調査をした際、口頭で回答された情報の元資料のコピーを頂戴できないかと依頼したところ、「国家機密だから」という理由でいったん謝絶された)。それでは現地の図書館で調べればよいかというと、ハノイ市やホーチミン市に存在する一部の総合図書館を除き、地方レベルの大学や図書館の利用も手続きは容易ではない(たとえばアンザン省立図書館の内規では、利用者は省内在住・在勤者に限られる)。机上でできる予備調査として、地誌の利用価値は極めて高い。

むろん、フィールドワークを行う際には、個別の主題に関する一次資料や当事者だけが持つ情報に直接アクセスすることが重要であり、実際、そういった情報が研究のコア部分となるのが通例であろう。しかし、そうやって収集した情報の意義は、対象地域に関する基礎的な情報と結びつかない限り、容易に他者に伝わらないし、そもそも基礎的情報を得ていなければ、効率的な情報収集や、重要な情報の収集は難しい。日本にいながら調査対象地のあらゆる主題に関して公的の情報が得られ(地誌の編纂は各レベルの共産党組織と地方政府の強い関与のもと行われている)、かつ図書資料であるがゆえに容易に引用が可能であること、地誌の利用価値はまさにそこにある。

地誌の内容

地誌の記述の様式は、大きく分けて(1)主題別記述、(2)事典の二つに分けられる。ひとつの地誌には、(1)(2)の両方が含まれていることもあれば、その地域に関する事典が別に出版されている場合、(2)が地誌に含まれないこともある。(1)では、地理(行政区分、自然、人口、軍事)、歴史、経済(農林水産業、工業、運輸、郵便、商業、金融)文化・社会(習俗、信仰、衣食住、文学、芸術、建築、教育、医療、スポーツ、科学、報道)、社会など幅広く取り扱われている。(2)は、地名(行政区分)、河川、歴史的事件、道路、史跡、宗教施設、人物、等に関する事典である。(1)(2)のほかに、年表や地図が掲載されることもある。

研究の手法や視角は研究者ごとに異なるため、どの箇所を読むべきであると一概には言えない。とはいえ、すべての研究者に対して有用な情報として、行政区分の変遷に関する情報が挙げられるだろう。たとえば、ある特定の地域の特定の時期についての情報(たとえば各年の米の生産量)を収集するには統計書が資料として最適である。ところが統計書を入手したところで、行政区分の変遷を把握していなければ、長期的な変動を追うことができない。地誌の編纂にあたっては、行政区分の変遷の整理は重要視されているようである(漢喃本以来の伝統なのだろうか?)、たとえばメコンデルタのティエンザン省の地誌(Địa chí Tiền Giang発行2005年~2007年)[写真1]は、1808年から1960年にかけて、省内のそれぞれの村落がどのような行政区分の変遷を経たのかについて25ページにわたり一覧表が作成されており、それと同様の内容が個別に各社(行政村)の項目に掲載されている。

[写真1] ティエンザン省の(Địa chí Tiền Giang、2005年~2007年発行)。2巻本。このボリュームからは、編集元の省共産党委員会-省人民委員会の地方資料編纂への意気込みが感じられる。

なお、発行年によっては地誌のタイトルに冠される地名が現在の行政区分と一致しているとは限らない。しかしながら、省や県レベルの行政区分の変遷については、地名事典を引くことで容易に調査可能である。

地誌の類似資料あれこれ

以上、現代ベトナム語で記された地誌について述べた。日本国内には、現代ベトナム語で記された地誌がおよそ100タイトル所蔵されている(各行政レベルの合計数)。その多くは1980年代以降に出版されたものである(一部1930年代にクォックグー・漢文併記の地誌が出版されている)。また、地誌と類似のタイトルや内容を持つ別の系統の資料もある。その一例は「XXの今と昔(XX xưa & nay)」といったタイトルの資料であり、地方の歴史に関する読み物といったものから写真を中心にした地誌といったものまでその内容は様々である。発行年は1960年代から現代まで幅広い。他の例としては「YY地方志(Địa phương chí YY)」といったタイトルの資料が挙げられる。その内容は、(1) 漢喃資料のベトナム語訳本(2000年代に入ってから漢喃研究院が中心となり発行したもの)と、(2)ベトナム共和国が出版した年鑑的資料に大きく二分される。

[写真2] ホアビン省の地誌(Địa chí Hòa Bình、2005年発行)。ホアビン省の共産党委員会、人民評議会、人民委員会による編纂。