桜井由躬雄文庫について

桜井由躬雄文庫は、東京大学名誉教授で歴史地域学者の故・桜井由躬雄(さくらい・ゆみお:1945~2012 年)氏の旧蔵書2112点からなるコレクションで、現在、東京大学附属図書館アジア研究図書館に収蔵されている。コレクションの中心はベトナム語で記述されたベトナム史に関する図書であり、その他、ベトナムや東南アジア地域の社会や文化に関する資料を含む。桜井氏の研究の足跡は、自伝『一つの太陽 : オールウエイズ』(めこん、2013年)に詳しい。以下、主に同書に沿って桜井氏の研究の足跡をたどるとともに、この文庫の成立の背景と特徴について明らかにしたい。

自伝『一つの太陽 : オールウエイズ』

桜井氏の東南アジア研究は漢文で書かれた文献に基づく歴史学からスタートした。氏は1965年に東京大学文学部東洋史学専修課程に進学し、卒業論文執筆から1977年に東京大学人文科学研究科東洋史学専門課程を退学するまでの間、ベトナム前近代史研究、なかでもベトナム北部紅河デルタの村落共有田制に関する研究にとりくんだ。そのため、桜井由躬雄文庫の中には、漢字・字喃(チューノム)で書かれたベトナム資料の影印版が多く含まれている。

氏の研究の転機となったのは1977年の京都大学東南アジア研究センター(2004年に京都大学東南アジア研究所に改組された。現京都大学東南アジア地域研究研究所の前身機関のうちの一つ)への赴任である。東南アジア地域研究の中心地であった京都大学東南アジア研究センターに在籍し、東南アジアやインドの諸地域において、多くの広域調査や村落調査を経験することで、氏は実地観察、直接的な資料収集、諸学の総合による地域理解めざす地域研究を目指すようになった。同時に村落共有田制研究は地域研究の方法を取り入れた形で継続され、その成果は1987年に『ベトナム村落の形成 : 村落共有田=コンディエン制の史的展開』(創文社)としてまとめられた。

氏の第二の転機は1985~1987年にかけて約2年間におよぶ在ベトナム日本国大使館専門調査員の経験である。ベトナム共産党がドイモイ(刷新)と呼ばれる改革を本格的に開始したのは1986年12月に開催された同党の第6回党大会からであり、この桜井氏のハノイ滞在はドイモイ政策前夜からドイモイ政策が経済に実効を持ち出す前の時期、言い換えれば政治的理由から、日本とベトナムの往来や研究者間の交流が容易ではなかった時期にあたる。当時のハノイの状況は『ハノイの憂鬱』(めこん、1989年)にくわしい。

桜井由躬雄文庫の中には、1950年代から1980年代までに発行された、現在では現地でも入手しにくい書籍が多く含まれている。主題については、桜井由躬雄文庫を構成する資料のうち、圧倒的多数は歴史を主題とする資料であるが、農業、文学、政治、言語、宗教、民族、舞台演劇、音楽など、ベトナムに関するあらゆる主題を扱った資料が含まれる。また地域に関しては、ベトナム北部紅河デルタに限定されず、ベトナム各地の省や県、行政村の「地誌」や地方史、共産党支部史(日本の図書館で「地域資料」に分類されるような資料)が含まれている。これらの資料の収集の背景には、氏が在ベトナム日本国大使館専門調査員として、ドイモイ政策が軌道にのりはじめる前の時期にハノイに長期滞在できたという条件と、その時期に桜井氏が精力的に現地研究者との幅広い学術ネットワークを構築し、そのネットワークを晩年まで維持したこと、ベトナムでいう「ベトナム学」のパイオニアとして、総合的にベトナムを理解したいと考えていたことがあると思われる。

ベトナムの「地域資料」

1990年、氏は京都大学東南アジア研究センターから東京大学文学部に移った。1993年になり外国人のベトナム国内旅行が解禁されたことを機に、氏はベトナム北部紅河デルタの下流域の一農村バックコックムラの長期連続調査を開始した。バックコックムラの長期連続調査はベトナム側からは高く評価され、氏は2003年にベトナム社会主義共和国から友好徽章を贈られ、同年ベトナム国家大学より名誉科学博士号を、さらに2009年ベトナムのファン・チャウ・チン文化財団よりベトナム学賞を贈られた。さらに没後の2013年にはベトナム社会主義共和国より友好勲章を追贈された。

バックコックムラの研究は主として、家計に関するインタビュー調査やムラの古老に対する聞き取り調査を基としており、また対象とする地理的範囲が狭いため、2006年時点でバックコックムラの研究を整理した『バックコック : 歴史地域学の試み』(東京大学大学院人文社会系研究科南アジア東南アジア歴史社会研究室、2006年)では、刊行図書資料は多く利用されていない。その一方、氏の没後に書斎に残された資料からは、氏は20年弱にわたるバックコックムラの調査や、後述するハノイの都市形成史調査のかたわら、ベトナムで出版されたベトナムに関する図書や定期刊行物を依然として幅広く収集し続けていたことがわかる。

2000年代はじめに相次いだ授章等の背景について、氏自身はバックコックムラ研究が現地ベトナムで評価されたことによるものと受け止めている。しかしそれとともに、没後に書庫に残された資料からは、ベトナム国内で蓄積された学術的成果を尊重し、ベトナム人研究者の著作や人を通じてベトナムを理解しようとした氏の姿勢が伺い知れ、このような氏の姿勢も授章等の背景にあるのではないかと考えられる。

氏は2005年末から、碑文に残された情報と古老に対する聞き取り調査、GISを使ったハノイの都市形成史研究に着手した。そして2007年に東京大学を定年退職してから2012年に他界するまでの晩年は、氏の中心的研究テーマはバックコックムラの研究からハノイ都市形成史に移った。一方、氏は遅くとも2005年までには、ベトナムのそれぞれの地域の特徴を整理した本『ベトナム概説』(めこん、近刊予定)の執筆に着手し、広域景観調査を再開した。氏は2012年に急逝したため(享年67歳)、残念ながらハノイ都市形成史研究は総括されずにおわり、また『ベトナム概説』は未完成の遺作となった。以上が氏の研究の足跡と桜井由躬雄文庫の特徴である。

なお、ベトナム村落研究と並ぶ桜井氏の研究活動の柱に、『インドシナ文明史』(ジョルジュ・セデス著、辛島昇・内田晶子との共訳、みずず書房、1969年)、『東南アジア史1』(世界各国史5、1999年、山川出版社)『ヴェトナム・カンボジア・ラオス』(東南アジア現代史3、山川出版社、1997年)、『東南アジア世界の形成』(《ビジュアル版》世界の歴史12、石井米雄との共著、講談社、1985年)、『米に生きる人々:太陽のはげまし、森と水のやさしさ』(大村次郷写真、集英社、2000年)、『東南アジアの歴史』(放送大学教育振興会、2002年)、『前近代の東南アジア』(放送大学教育振興会、2006年)に代表される東南アジア史の概説の翻訳、編集、執筆がある。これらの仕事に使用された東南アジア諸地域に関する資料、とくに和図書および欧米言語の図書の大部分は、桜井由躬雄文庫に含まれていない。というのも、ご遺族の意向と保管スペースの事情により、桜井氏の旧蔵書のうち、東京大学附属図書館アジア研究図書館が譲り受けた資料は、原則的に東京大学未所蔵の公刊資料に限定されたからである。

またバックコックムラの研究に関する非公刊資料、すなわちムラで収集した家譜の複写やムラで撮影された写真については、京都大学東南アジア地域研究研究所を拠点とするバックコックムラ研究チームに引き継がれている。

ベトナムで発行された雑誌資料については、同じく東京大学附属図書館アジア研究図書館に寄贈された古田元夫氏旧蔵の雑誌とともに製本され、東京大学附属図書館アジア研究図書館に収蔵されることになっている。

桜井由躬雄文庫の整理は東京大学附属図書館アジア研究図書館上廣倫理財団寄附研究部門が2014年度から2015年度にかけて整理を行い、2015年度末までに東京大学附属図書館アジア研究図書館に寄贈された。OPAC登録作業は2019年度に開始した。整理業務は藤倉哲郎(U-PARL共同研究員/愛知県立大学准教授)および澁谷由紀(U-PARL特任研究員)が担当し、資産登録作業は東京大学附属図書館情報管理課選書受入係が行った。

とくに2014年度については、発足当時のU-PARLの設備上のの事情により、整理作業の大部分は桜井邸で行われた。1年以上にわたる整理期間中、わたしたちを快く受け入れていただき、また書架に定期的に風通しをするなどの作業により、資料を良好な状態に保ったままご寄贈くださったご遺族に対し、深く感謝申し上げたい。

澁谷由紀(U-PARL特任研究員) 2020年9月30日

注1: 桜井由躬雄文庫のOPAC登録作業は現在進行中です。2020年9月16日までに95件の書誌が登録され、利用可能になっています。(OPACで詳細を見る

注2: 「【過去記事】桜井由躬雄文庫【準備中】(http://u-parl.lib.u-tokyo.ac.jp/archives/japanese/桜井由躬雄文庫

 

【資料紹介】ベトナム統計年鑑 桜井由躬雄文庫より

藤倉哲郎(U-PARL共同研究員 / 愛知県立大学准教授)

ここに紹介する資料は、桜井氏が生前に収集した、ベトナムの1970 年代以降の統計年鑑です。ベトナムの統計年鑑を1970 年代のものからそろえている日本国内の図書館は、アジア経済研究所図書館、京都大学東南アジア研究所図書館、国立民族学博物館等ごく限られています。桜井氏は、1985 ~ 87 年のあいだ、在ハノイ日本大使館専門調査員として現地滞在していた時期に、当時、ベトナム国外では入手困難であった現地出版書籍を精力的に収集していました。氏の蔵書には、他にも、文学作品、村落史、農業農村研究、共産党関係の書籍など、1970 年代から80 年代に出版された書籍を中心に、現在では現地でも入手しにくい書籍が多く含まれています。

統計年鑑を並べてみると、時期ごとのベトナムの経済状況をうかがい知ることができて興味深く感じられます。1975 年にベトナム戦争が終結した後も、西側諸国から経済封鎖を受けていたベトナムは、国内の経済政策の失敗と、カンボジア紛争への介入によって、厳しい経済状況にありました。とくに1970 年代末からの経済不況は深刻なものでした。こうした経済状況が書籍の紙質にも反映しています。1987 年から本格的に始動されるドイモイ路線は、1990 年代に入って経済状況を好転させましたが、安価な酸性紙(酸による劣化で本をボロボロにしてしまう)から、より高価ではあるが書籍の長期保存には適している中性紙に代わるのは、1996 ~ 97 年頃になってからです。展示書籍では1996 年版年鑑(1997 年出版)からのものがこれに該当します。

1971年から1999年までの統計資料

また、桜井氏の蔵書のなかから、書籍の価格表示を見てみると、1985 年9 月14 日に実施されたデノミ(旧通貨10 ドンに対して新通貨1 ドンへの切り替え)の跡が確かめられます(写真参照)。このデノミの背景には、当時の価格・賃金制度改革の失敗によるハイパーインフレがあります。ページ数と形状の近い書籍を、1985 年を前後して比べてみると、価格がおよそ10 倍になっていることがわかります。

「価格22.50ドン」の表示(1983年出版『ベトナム史』)

「価格300ドン」の表示(1987年出版『ベトナム古代・中世編年史』)

(この資料紹介は2015年1月31日開催第1回U-PARLシンポジウム「むすび、ひらくアジア:アジア研究図書館の構築に向けて」配布資料「講演要旨と展示コレクション解説」に掲載された展示コレクション解説を一部修正し、2020年9月30日に掲載したものです。)