本資料は2020(令和2)年3月に東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻を退職した生越直樹名誉教授による寄贈資料である。生越直樹氏の専門である日韓対照言語学,社会言語学を中心とした大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国で刊行された資料554冊からなる。資料はすべて韓国朝鮮語で記述される。
生越直樹氏の研究はご本人が「出会った人との関係に負うところが大きい」と述べるように多岐にわたる。ここでは氏の経歴を紹介したのち資料群の特徴を述べる。
大阪外国語大学,大阪大学大学院在学時代
生越直樹氏は1977年に大阪外国語大学朝鮮語学科を卒業し,1979年に大阪外国語大学大学院外国語学研究科修士課程(2007年に大阪大学に統合)を修了する。塚本勲先生のもとで韓国朝鮮語と日本語の対照研究に取り組んだほか,在学中『朝鮮語大辞典』(角川書店,1986年)の編纂にも携わった。
修士課程修了後,1979年に大阪大学大学院文学研究科博士後期課程日本学専攻に編入,1982年に退学し大阪大学文学部助手(日本学専攻社会言語学講座)を経て,1983年に大阪外国語大学留学生別科非常勤講師を務める。大阪大学大学院時代に故徳川宗賢先生のもとで社会言語学との出会いを果たす。当時氏が夜間中学で在日コリアンに韓国朝鮮語を教授していた接点から,夜間学校と民族学校で在日コリアンの言語生活に関するアンケート調査を実施する。研究成果に次のようなものがある。
- 「在日韓国・朝鮮人のバイリンガリズム―アンケート調査の結果から」,『待兼山論叢(日本学篇)』16,大阪大学文学部,1982年
- 「在日朝鮮人の言語生活」,『言語生活』376,筑摩書房,1983年
日本語教育とのかかわり
国際交流基金より1984年~86年の間大韓民国高麗大学校日語日文学科(客員専任講師)への派遣と,1986年から横浜国立大学教育学部(日本語教員養成担当)での勤務,1991年に国立国語研究所日本語教育センター第四研究室室長を歴任する。当時日本語教員の養成が急務であったこともあり,高麗大学校と横浜国立大学では日本語教育および日本語教員養成に携わる。それまで作例に拠っていた研究から実例に基づいた実例主義による記述的な研究を行う。
国研時代は日本語教育センター第四研究室(1992-97年)で中国語・朝鮮語を母語とする日本語学習者に関する研究を行い,日本語教育から韓国朝鮮語研究への転換となった。大きく二つの取り組みがあった。一つ目は日韓対照研究の理論的枠組みについて研究したこと,また一つは言語行動に関する多言語比較プロジェクトに参加し社会言語学的研究を行ったことである。
大きな成果の一つが日本の韓国朝鮮語研究者による初めての論文集を発行したことである。
- 『日本語と朝鮮語』上下,国立国語研究所編(1997)
東京大学時代
1997年に東京大学大学院総合文化研究科転任以降,ふたたび日韓対照研究と社会言語学に取り組んだ。日韓対照研究では主語なし名詞文や,名詞止め文について研究成果を残した。社会言語学的研究では在日コリアンとくにニューカマーを対象に民族学校での調査と,大連,延吉,通化にて中国朝鮮族の言語生活を調査し,在日コリアンのそれと比較した。在日コリアンの調査は氏が大阪大学大学院在籍中に行ったものの経年調査に位置付けられる。『在日コリアンの言語相』は日本で初めて在日コリアンの言語を扱った書籍である。
- 「序 対照言語学の展望」「日本語・朝鮮語における連体修飾表現の使われ方 -「きれいな花!」タイプの文を中心に-」,『シリーズ言語科学 第4巻 対照言語学』生越直樹編,東京大学出版会,2002年11月pp.75-98
- 「在日コリアンの言語使用意識とその変化 ―ある民族学校でのアンケート調査結果から―」,『在日コリアンの言語相』真田信治,生越直樹,任榮哲編,和泉書院,2005年1月,pp.11-52
- 「現代朝鮮語における様々な自動・受動表現」,『ヴォイスの対照研究-東アジア諸語からの視点-』(生越直樹・木村英樹・鷲尾龍一編),くろしお出版,2008年11月,pp.155-185
資料の価値
生越直樹氏の足跡をたどると氏の研究の中心は日韓対照研究,社会言語学,日本語教育というキーワードに集約でき,今回寄贈された書籍はそれらに加え,記念論集や全集,その他に現代語および中世語の文法書はもちろん,語彙論,形態論,意味論,統辞論等幅広い分野をカバーする。これらはアジア研究図書館で800番台に分類される図書が大部分を占める。
ここで簡単にアジア研究図書館800番台の分類基準について説明すると,他地域は記述言語によって細分されるが、東アジアの韓国朝鮮語および中国語で記述されたものは,下位の主題分類を付加記号で表現する。両者はほぼ共通しているが,中国は「800 x 少数言語」が設けられている。
【韓国朝鮮】
800 a 韓国朝鮮語一般
800 b 韓国朝鮮語音声.音韻
800 c 韓国朝鮮語文字.文体.正書法
800 d 韓国朝鮮語語彙.文法.意味.コミュニケーション
800 e 韓国朝鮮語言語地理学.方言.言語接触
【中国】
800 a 中国語一般
800 b 中国語音声.音韻
800 c 中国語文字.文体.正書法
800 d 中国語語彙.文法.意味.コミュニケーション
800 e 中国語言語地理学.方言.言語接触
800 x 中国少数言語
以下で800に分類される寄贈図書のうち,特筆すべきもの紹介する。
- 800
個別の言語を主題としないもの,影印や訳注本,便覧と年鑑などはここに収める。
・ハングル学会編『국어학 자료은행 편람(国語学資料バンク便覧)1-4』(한글학회,1997年)
- 800a:韓国朝鮮語一般
記念論集や全集その他,社会言語学,教育論等を収める。
・유목상 편『國語學新硏究 : 若泉金敏洙敎授華甲紀念』(탑출판사,1986年)
・基谷 姜信沆先生 華甲紀念論文集刊行委員會 編『國語學論文集 : 姜信沆敎授回甲紀念』(태학사,1990年)
・北朝鮮民主主義人民共和国の社会科学出版社から発行された朝鮮語学全書のシリーズ(一部抜けあり)
- 800b:韓国朝鮮語音声・音韻
・李基文『國語音韻史硏究』(한국문화연구소,1972年)
- 800c:韓国朝鮮語文字・文体・正書法
表記法やそれに関わる語文運動を扱ったもの,文字そのものもここに収める。
・고영근『한국어문운동과 근대화(韓国語文運動と近代化)』(탑출판사,1998年)
・사회과학원언어학연구소『조선말규범집해설(朝鮮語規範集解説)』(회과학출판사,1972年)
- 800d:語彙・文法・意味・コミュニケーション
ここに収められる資料は1970年代以降に刊行されたものが多いが,それ以前のものも含まれ,それは古書としても稀覯本である。
・김민수『국어문법론연구(国語文法論研究)』(통문관,1960年)
・이숭녕『국어조어론공(国語造語論攷)』(을유문화사1961年)などがある。
김민수(1960)は若泉金敏洙高麗大学校名誉教授(1926~2018)が1948~60年に発表した論文を収録した学術書。이숭녕(1961)は心岳李崇寧博士(1908~1994)による著書。김민수(1960)と合わせて大日本帝国の統治時代から解放後の韓国朝鮮語研究の様相を伝える資料である。研究史を把握する上で重要な資料群であるだけでなく,韓国朝鮮語学史研究の将来的な一次資料ともなり得るものである。その他に現代語および中世語の文法書はもちろん,語彙論,形態論,意味論,統辞論等幅広い分野をカバーする。
- 800e韓国朝鮮語言語地理学・方言・言語接触
・李翊燮『嶺東嶺南의 言語分化(嶺東嶺南の言語分化)』(서울대학교출판부,1981年)
・국립국어원 [편]『(2010년) 중국 집단 이주 한민족의 지역어 조사 보고서 : 경북 경주 지역어 (中国集団移住韓民族の地域語調査報告書: 慶尚北道慶州の地域語)』(국립국어연구원,2010年)
800番台以外のものは,韓国国語教育研究会編『한국 국어 교육 연구회 30년사(韓国国語教育研究会30年史)』(아세아문화사,1988年)をはじめとする学会,研究機関の刊行物等がある。これらは総じて現在入手が困難なものばかりであり,量の多少にかかわらず貴重な資料である。
参考資料
生越直樹先生最終講義実行委員会編『生越直樹先生最終講義記念 私の研究と出会った方々』2020年2月
東京大学教養学部教養学部報「駒場をあとに「なんで,私が東大に」」2020年1月7日
(https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/about/booklet-gazette/bulletin/615/open/615-01-1.html)
解題作成:澁谷秋(人文社会系研究科助教・元U-PARL学術支援職員)
November 9, 2023