末廣昭文庫について

本文庫は、2016年(平成27年)3月に東京大学社会科学研究所を退職した末廣昭名誉教授が寄贈した蔵書コレクションであり、東京大学総合図書館アジア研究図書館上廣倫理財団寄附研究部門が受入を行ったものである。全2,233点(うち洋書1,596点、和書14点)+雑誌623点からなる本文庫は、1970年代〜2000年代に収集された、主にタイの経済、社会、政治史に関するタイ語文献、雑誌から構成される。末廣昭氏は、タイを主なフィールドとするアジア経済研究の主導的な研究者の一人であり、徹底した現地調査に基づいてアジア全体の工業化や経済実態を解明し、日本のアジア研究に多大な貢献をなした。本文庫は、末廣氏が現地調査の中で収集した文献および雑誌資料であり、東南アジア経済研究分野における日本でも有数のタイ語資料群である。

末廣氏は1951年鳥取県米子市に生まれ、1974年に東京大学経済学部を卒業、1976年に東京大学大学院経済学研究科応用経済学修士課程を修了した。その後1976年からアジア経済研究所調査研究部に勤務し、タイをフィールドとして、アジア経済の研究に従事した。同研究所在職中、1981年4月から1983年9月までは海外派遣員としてタイ国チュラーロンコン大学社会調査研究所(CUSRI)に籍を置き、現地で産業・企業研究や工場調査に従事した。海外派遣員時代の研究の様子については、末廣昭「地域研究の経験則――タイ企業研究から学んだこと――」(小池和男・洞口治夫編『経済学のフィールドリサーチ』日本経済新聞社、2005年、197〜246頁)に詳しく述べられている。末廣文庫の蔵書は、この時期に収集された文献と、その後タイを訪問した際に収集されたものから作られている。

1987年からは、大阪市立大学経済研究所助教授として開発経済論、アジア経済の科目で教鞭を執った。1991年3月に「タイにおける資本蓄積、1855–1985年」というテーマで、東京大学大学院経済学研究科の博士号(経済)を取得した。1992年から東京大学社会科学研究所に勤務し(1992〜95年:助教授、1995〜2016年:教授、所長:2009〜2012年)、アジア経済社会論の科目を担当した。2016年からは学習院大学国際社会科学部(教授・初代学部長)において、アジア経済論、東南アジアの政治と経済、地域研究の手法などの教育を担当している。この他,アジア政経学会理事長(2003〜2005年)、日本タイ学会会長(2008〜2011年)等を歴任し、アジア研究の組織化や後進の育成に大きな貢献をなした。

2005年大同生命地域研究奨励賞受賞(主としてタイ研究に対して)、2010年に紫綬褒章受章(タイを中心とする東南アジア研究)、2018年には福岡アジア文化賞学術研究賞を受賞した。末廣昭氏の代表的な業績と、受賞については以下の通りである。

  • 「タイ系企業集団の資本蓄積構造――製造業グループを中心として」『アジア経済』第25巻第10号、1984年(第6回発展途上国研究奨励賞受賞)
  • 『NAICへの挑戦――タイの工業化』アジア経済研究所、1987年
  • Capital Accumulation in Thailand, 1855–1985, Tokyo: UNESCO The Centre for East Asian Cultural Studies, October 1989.(第6回大平正芳記念賞受賞、第33回日経経済図書文化賞受賞)
  • 『タイの財閥――ファミリービジネスと経営改革』同文舘出版、1991年(共著)
  • 『タイ――開発と民主主義』岩波新書、1993年
  • 『キャッチアップ型工業化論――アジア経済の軌跡と展望』名古屋大学出版会、2000年11月(第13回毎日新聞社アジア・太平洋賞大賞受賞)
  • 『岩波講座東南アジア史第9巻 「開発」の時代と「模索」の時代』岩波書店、2002年
  • (編著)『ファミリービジネスのトップマネジメント――アジアとラテンアメリカにおける企業経営』岩波書店、2006年3月(共編著、第1回Family Business Award 学術優秀賞受賞、星野妙子氏と共同受賞)
  • 『ファミリービジネス論――後発工業化の担い手』名古屋大学出版会、2006年(第2回樫山純三賞受賞)
  • Catch-up Industrialization: The Trajectory and Prospects of East Asian Economies, Singapore: National University of Singapore Press, 2008.
  • 『タイ――中進国の模索』岩波新書、2009年
  • 『新興アジア経済――キャッチアップを超えて』岩波書店、2014年
  • 『東アジアの社会大変動 : 人口センサスが語る世界』名古屋大学出版会、2017年(共編著)
  • 『世界歴史体系――タイ史』山川出版社、2020年(共著)

初期の代表作であるCapital Accumulation in Thailand 1855–1985(1989年)は、長期におけるタイの資本家と企業の発展過程を多くの文献と現地調査によって実証的に明らかにし、国際的に高く評価された。また『キャッチアップ型工業化論――アジア経済の軌跡と展望』では、タイだけでなくアジア全体の工業化と経済発展の研究における新たな視角を示したことで高く評価されている。

末廣昭文庫は、タイの政治、経済、社会、歴史に関する文献、定期刊行雑誌、統計資料等が中心となっている。特に経済に関する雑誌は、1983年創刊の『プーチャットカーン』Phuchatkan(経営者)が創刊号から2008年の第302号まで、『カーングンタナカーン』Kan Ngeon Thanakhan(金融と銀行)も2000年の第219号から2015年の第394号までが揃えられている。その他、華人経営者について扱った『華商』(Hua Shang)なども合わせると、タイ経済に関連した雑誌資料は約400冊にのぼる。

タイ語雑誌

タイ語雑誌(2008年、研究室書架)

さらに注目すべきは、250冊あまりにのぼる「葬式頒布本」(Nangsue chaek(英語ではcremation volumeと訳される)のコレクションである。葬式頒布本とは、ある人物の経歴や社会的業績を紹介した出版物であり、タイ語では「ナンスー・チェーク」と呼ばれる。「ナンスー・チェーク」は、Ngan Kusonと呼ばれる個人的な宗教上の諸行事において、参加者に配布される書物であり、一種の「引出物」(Khong Cham Ruai)とされる。葬儀際の引出物として印刷されることが圧倒的に多かったため、「葬式頒布本」と呼ばれている。「葬式頒布本」の習慣は1876年に始まったとされるが、一般に広く普及したのはラーマ6世時代(在位1910–25年)になってからであった。当初は王族、貴族官僚の葬儀の際に配布されていたが、やがて官吏や華僑商人の間にも広がっていった。葬儀以外では、誕生祝や賀寿の祝賀、王族・貴族の昇叙・昇任等の祝賀の機会などにも出版された。印刷頒布される書物の内容は様々であったが、伝記的な経歴や追悼文だけでなく、その人物の職業に関わる歴史や情報が記載されているほか、古典文学や地誌などを含むことも多くあった。そうした意味で、葬式本は王族貴族だけでなく、幅広い人種、階層、職種にまたがる人々の経歴や家系図、人的脈略を大量に知ることができる。そのため、歴史資料や法令集としての価値だけでなく、経済史、社会史研究にとって見逃すことのできない貴重な資料となる。タイの葬式頒布本の資料価値については、末廣氏自身、「タイの『葬式本』―社会経済史研究の宝庫」(『UP』1995年3月)の中で詳しく触れている(なお、同論考は東京大学出版会に転載許可を得てU-PARLウェブサイト「タイの「葬式本」:社会経済史研究の宝庫」としてオンライン公開されている)。

葬式頒布本

葬式頒布本(2008年、研究室書架)

以上が末廣昭文庫の特色である。タイ経済の研究だけでなく、タイ地域研究にとっても有益な歴史資料、統計データを豊富に含むため、幅広い分野で活用できるコレクションとなっている。

末廣昭文庫の整理は東京大学附属図書館アジア研究図書館上廣倫理財団寄附研究部門が2014年度から2016年度にかけて行い、2016年度末に東京大学附属図書館アジア研究図書館に寄贈された。整理業務は宇戸優美子(U-PARL共同研究員)およびワリントン・ターマリヤブット(元U-PARL特任研究員)が担当し、資産登録作業は東京大学附属図書館情報管理課選書受入係が行った。

また末廣氏が収集したタイ語の他の文献、タイ人による経済史関係の修士論文のコピー、労働問題資料、華語で書かれたタイ華僑・華人文献、本人の多数のフィールドノート類は、氏のかつての職場であった日本貿易振興機構アジア経済研究所図書館に寄贈され、同図書館が現在整理中である。

宇戸優美子(U-PARL共同研究員) 2020年9月30日

注1: 末廣昭文庫のOPAC登録作業は現在準備中です。

注2:「【過去記事】末廣昭文庫」(http://u-parl.lib.u-tokyo.ac.jp/archives/japanese/末廣昭文庫