末廣昭
U-PARL兼務教員(社会科学研究所教授)
*本コラムは、東京大学出版会の許可を得て『UP』1995年3月号より転載したものです。
「葬式本」とは何か
タイに「頒布本」(ナングスー・チェーク)と呼ばれる類の本がある。葬式をはじめ、還暦の祝い、家屋の新築など、なにかの節目に、参加者や関係者に配布される本や小冊子がそう呼ばれる。中でも葬儀の時に配布される本が数の上では格段に多く、「頒布本」といえば「葬式頒布本」を指すのが普通である。
この葬式頒布本(略して葬式本)を、物故者を供養しその功徳を讃える仏教の慣習から生まれたと理解する人がいる。また中国人に共通する慣習と誤解している人もいる。しかし、仏教国の間に葬式本の刊行は流布していないし、中国人(あるいは華僑)の間にもこうした慣習は見いだせない。葬式本はあくまでタイ固有の、そして世界でも稀な文化形態(出版活動)のひとつなのである。
今日に続く葬式本の原型は、1870年代まで遡ることができる。当時、王族や貴族高官の葬式は、多額の金を使って実施された。しかも亡くなってからすぐ葬式が行なわれるのではなく、王族や貴族の場合には3ヶ月から1年(国王など)遺体を安置し、さまざまの儀式を執り行なったのち、荼毘に付すのが通例で、これは今も同じである。
一方、国王文書局は当時、資金不足に悩んでいた。そこで、金の集まる遺族にスポンサーになってもらい、保存されている手書きの文書や法令を編纂して活字本にしたり、重要な文書を復刻して広く頒布することを考えた。「文書の国タイ」ならではの発想である。民間資金を利用した公文書の出版計画と、物故者の供養になるならと考えた遺族のごく自然の感情が結びついた結果が、葬式本のそもそもの始まりだった。
葬式本の利用価値
したがって、初期の葬式本には、物故者の名前こそ表紙や序文にでてくるが、本人の略歴や活動についてはまったく記述がない。スポンサーに対する謝辞が登場する程度である。ところが1900年代に入ると、いろいろなヴァリエーションが出てくる。
例えば、王族や貴族の場合には、家族の歴史、本人の略歴と爵位・地位の昇進などが、冒頭に記述されるようになった。また、古文書の編纂や復刻の代わりに、物故者自身の詳しい経歴や親族知人の追悼文が新たに編集され、これが葬儀の場で配布されるようにもなる。そして、こうした慣習は、王族や有力貴族だけでなく、官庁の一般官吏や中国人商人にも拡大していった(もっとも、葬式本を作成するだけの資金力のある遺族のみで、本当の平民貧民には普及しなかった)。
その結果、現在入手できる葬式本は、二つの異なる利用価値をもっている。ひとつは、分散した歴史文書や法令集などを、文書局(のち芸術局)の校閲を経た頒布本として利用できることである。タイの歴史研究に携わる者が、葬式本の収集に奔走してきたのは、もっぱらこちらの価値にもとづいている。
例えば、ラーマ5世王(チュラーロンコン大王、1910年逝去)の日記・執務記録は、1920年代から40年代にかけて、ラーマ五世王の側室やその他王族の葬儀のときに断続的に印刷され、計24巻が刊行された。また、ラーマ1世王から5世王期までのそれぞれの『国王年代記』も、初期の葬式本として復刻されており、一部の編集本などはそれ自体が稀覯本の扱いを受けている。
歴史事実の新たな発見
葬式本のもうひとつの価値は、王族・貴族だけではなく、軍人、エンジニア、中国人商人、そしてタイ政府に雇用されていた外国人など、幅広い人種、階層、職種にまたがる人びとの経歴や家系図、人的脈絡を、大量に知ることができる点である。私が興味をもっているのはこちらの側面で、Who’s Whoとしての価値は、葬式本の数が現在数万冊に達しているため、極めて高い。思いがけない人物の発見、歴史から忘れさられた貴重な事実を知らされることも、決して少なくない。
例えば、セートシリ・グリーダーゴン(王族、1880ー1957年)の場合。彼が1903年から2年間、日本の陸軍に研修に赴き、帰国後はタイ陸軍兵器局初代局長と武器弾薬工場の初代工場長になったという事実を葬式本で発見し、驚いたことがある。もちろん、従来の研究書はふれていない、日清戦争後の日本・タイ関係の一幕であった。
また葬式本の中には、物故者の略歴だけでなく、本人が関わった活動や官庁の歴史を巻末に付すことも少なくない。大蔵省にかつて勤めていた人の場合には「タイ関税局の歴史」が、また、砂糖産業に従事していた中国人商人の場合には「タイ砂糖産業発達史」が、在野の学者の協力を得て新たに書き下ろされたりする。服装デザイナーの女性の場合には、120ページに及ぶタイのファッションの歴史が、詳細な図版、写真と共に葬式本に掲載されていた。これなどは、ひとつの立派な研究書である。
格好の事例は、1988年1月に死去した、バンコク銀行元社長、会長チン・ソーポンパニット(陳弼臣)の葬式本に見いだすことができる。彼に関する葬式本は、私の知るかぎり四種類以上を数えるが、とくに充実しているのは「バンコク銀行編集版」である。それまで、タイ金融界の中で指導的役割を果たしながら、チンの若い時代の活動は謎に包まれていた。生年についてさえも諸説あったほどである。ところが、このバンコク銀行版葬式本は、チンの生涯を詳しく紹介しただけでなく、バンコク銀行の歴史、タイにおける銀行業の発達についても、内部事情を詳細に伝えた。タイ金融史の分野でこれにまさる研究書を、私はまだ読んだことがない。葬式本は、史料・事実の宝庫だけでなく、社会経済史研究の先達の意義ももっている。
葬式本の所蔵
葬式本をもっとも多数所蔵しているのは、現国王が出家したゆかりの地、バンコクのボーウォンニウェート寺であろう。その所蔵冊数は定かでないが、2万冊以上が集まっていることは確かである。また、古い時代の王族、貴族、勅任官吏の葬式本を1000冊以上収集し、貴重な本も多いのが、ダムロン親王(ラーマ5世王、6世王期の教育局長、内務大臣で、希代の歴史学者でもある)の私蔵本を集めた、ラーンルワン通りに面する図書館である。ダムロン親王は、多数の葬式本の序文や略歴を書いたことでも知られる。
一方、国外に目を転じると、まず目を惹くのは、京都大学東南アジア研究センターが所蔵する「チャラット文庫」である。葬式本の収集で知られたチャラット氏の膨大な本を、氏が亡くなったあと、当時、東南アジア研究センターに所属する石井米雄教授(1995年当時上智大学教授、2010年に逝去)が多大な努力をはらって購入し、同センターに納めた。8000余のうち4000冊が葬式本であり、タイを除くと世界最大のコレクションを誇る。このほか、オーストラリア国立図書館(キャンベラ)のタイ・セクションや、アメリカのミシガン大学のコレクションが有名であるが、質量ともに「チャラット文庫」には到底及ばない。
なお葬式本は、通常の書店では売っていない。もともと物故者に関係する人びとに配布するのが目的だからである。しかし、需要があれば供給もあるわけで、古本屋が新旧おり混ぜて葬式本を扱ってきた。最近では、ドーンムアン空港に向かう途中のチャトゥチャック公園で週末に開かれる青空市、その中に店を出している古本屋が数軒、販売している。いずれにせよ、葬式本の収集と研究は、古本屋にまめに足を運び、炎天下の中、一冊一冊手に取って中味を検討しながら買い集めていくことから始まる。研究に欠かせないとはいえ、けっこう時間(ひま)と金と体力がいる仕事なのである。
葬式本から分かること
もう少し葬式本の内容についてふれておこう。葬式本には、すでに述べたようにいろいろな形式があり、物故者の経歴についても、2ページのものから400ページを超えるものまで、精粗さまざまである。概していえば、次のような情報を提供してくれる。
⑴ 物故者の生没年月日、両親、兄弟姉妹、結婚、子供などの家族関係。本によっては、家系図の一覧や100ページを超える一族の歴史、詳細な家系記録などを添付したものも珍しくない。葬式本を見るかぎり、タイの王族・貴族などは日本人に劣らず家系図が好きであり、また、最近の傾向として華人の間でもルーツ探しが流行っているように思われる。
⑵ 本人の教育歴。小学校(寺での初等教育を含む)から大学、さらには海外留学などの学歴。同時に、本人の回想録や友人の追悼文などから、各種学校の当時の実態、留学の状況などが分かることも多い。
⑶ 職業、地位や経済活動の推移。とりわけ官吏の場合には、国王から下賜された爵位、欽賜名、地位の変化(昇進)が、年月日単位で詳細に記録される。軍人の場合も同じで、階級、地位の変化が判明する。物故者が関わった政府部局や企業の設立経緯、組織改革の経緯が記録されていることもある。
⑷ 国王からの受勲と寄付行為の経歴。タイは「勲章社会」なので、受勲はいずれの葬式本も細大もらさず記録している。
⑸ 給与の変遷(1870年頃から分かる)。とくに官吏、軍人の場合、地位・職務と同時に、年月日単位での昇級も掲載することが少なくない。タイの場合、「1928年公務員規則」が公布されるまでは、個人の給与水準は国王、各省庁の大臣、あるいは担当部局長の一存で決まったから、同一部署、同一勤続年数であっても、身分・学歴の違いや縁故関係によって、給与には大きな格差が存在した。給与の研究はタイ社会史研究の糸口ともなりうる。
タイ社会史研究の新たな試み
葬式本は、個々の本ももちろん面白いし貴重であるが、同時に注目すべきは、身分と学歴、職歴、あるいは身分・学歴と昇進、給与水準についてまとまった数の個人情報を、それも年代を越えて提供してくれるという点である。「身分社会」としてのタイを分析するためには、葬式本は格好の情報源であろう。
日本の歴史人口学が江戸時代の寺の宗門改帳研究を契機に発展し、フランスのアナール学派が中世、近世の教会簿を活発して成果を挙げたことを想起するならば、タイの社会史研究の新しい地平を拓くのは、葬式本の本格的分析から始まると期待できるかもしれない。
しかし、葬式本の研究には時間がかかるし、何より無数にある本の中から有用な情報をつかみ出してくる知識のバックロッグと豊かな歴史的想像力が必要不可欠となる。それだけやりがいのある仕事でもあり、私は時間を見つけては、パソコンのデータベースに一人一人の経歴や給与を入力し、今もその作業を続けている。いつ終わるか分からない作業ではあるが、将来書くことができればと思っている本のタイトルだけは決めている……曰く「葬式本が語るタイの世界」。
*転載にあたって、漢数字を算用数字での表記に変更しました。また、新たな写真を加えました。