荒木達雄
中央研究院訪問学員
*本コラムは、株式会社東方書店の許可を得て『東方』第411号, 2015年5月, 2-6頁より転載したものです。
「われわれは“マグロ図書館”なんです。」
末廣昭教授の一言にアジア研究図書館にかける教職員一同の意気込みが凝縮されているかのようであった。
その心は「泳ぎ続けていなければ死んでしまう」である。東京大学附属図書館アジア研究図書館(以下、新図書館)設立の意義を論じるこのシンポジウムには五名の研究者が登壇 し、それぞれの専門研究の視点からの考えを披露された。紙幅の都合上、ひとつひとつ細かく触れることはひかえるが、 異なる時代、地域、ジャンルの専門家であるにもかかわらず(むしろ、異なるからこそ、かもしれないが)、主張には大きな共通点があった。まず、研究においても図書においても分類を固定しすぎることは益にならないこと。研究領域が伸縮自在であるように、図書もまた境界を越えてさまざまな観点からアクセスできるようにすべきであること。もっとも重要なのは、研究が日々変化しつづけることに対応して図書分類も常に更新可能であらねばならないということ。この目的を達成するための試みが、開会の辞において木村英樹教授が説明された、「研究組織を有し、研究者の視点をもって運営する図書館」としての新図書館構想であった。
講演をうかがっていて痛感するのは、この構想はデジタル化と切っても切れない関係にあるということである。冨澤かな准教授が解説されたとおり、従来の図書分類は「モノ」としての図書を整理するためにあった。分類をするのは配架のためであり、配架とはすなわち図書がなんらかの共通点にもとづいてその位置を固定されることである。それが我々のイメージする図書館のあたりまえの姿であった。しかしそれではその枠にとらわれずに研究を行おうとするとき、また、既定の境界を超える研究が期待されている現状を鑑みたとき、不都合を生じることになる。ひいては羽田正教授の指摘されたごとく、既成の図書分類、図書館の収蔵書の単位が研究の枠をしばることにもなりかねない。確かに、ある図書をもって、これは日本に関する本である、中国に関する本である、インドに関する本である、あるいは歴史である、哲学である、地理である、自然科学であるなどラベルをつけることはできる。しかしそれはその本を大づかみにとらえた概念にすぎない。そしてまた多様な性格の、その主要なものとはいえ一側面をとりあげたにすぎない。ある図書をどのような目的で使うのかは人それぞれ、百人いれば百様の意図があると言っても過言ではない。現行の図書分類法でも複数の分類を与えることは可能であるが、研究の多様化、細分化、超領域化に対応するのはむずかしい。図書検索ページにキーワードを打ちこんでもなかなか望むものが得られず、まったく関係のないつもりで読んでいた本のなかで偶然欲していたものに遭遇して驚くという経験を持つ人は少なくないだろう。齋藤希史教授も「漢籍」、「準漢籍」、「国書」の分類のあいまいさについて述べられた。従来の分類と研究状況との乖離はトップクラスの専門家の間ではほぼ共通の課題と言っもよさそうである。これに対し、従来の大分類、小分類、ないし主分類、副分類という概念を改め、考えられる限りのキーワードを平等にタグ付けし、全文検索なども可能にしてさまざまな興味、目的から図書にたどり着けるようにすることが提案される。そのためには所蔵図書が研究者によってどのような観点で利用されているかを現在進行形で知り、反映させる必要がある。「研究者の視点をもって運営する」、「泳ぎ続けていなければ死んでしまう」図書館という発想が生まれたのも必然のことであった。
大学という研究機関が有する図書館はまず学生や研究者のために存在する。そのために公立の図書館と異なる整理方法を模索するのはもっともなことである。研究者の視点で構築されたシステムが実現されれば、東京大学以外の研究者の関心を引き、同様の考えを共有することもできるようになるかもしれない。古田元夫教授が実体験にもとづいて語られたように、図書や資料を集めるのに一研究者、一研究機関では限界がある。図書整理の概念を共有できればそれぞれが不足を補いあうこともできよう。まさに境界を超えて研究情報を提供しあうことが可能となる。構想は分類のみならず、資料そのもののデジタル化にも及ぶ。研究界に止まらず、書籍の電子化はもはや世の趨勢といってよい。研究機関が積極的にデジタル画像化やテキストデータ化をすすめ、全世界でいながらにして資料を調査できるようになることは研究者の悲願であると言えよう。これまで多くの人がぶつかってきた、資料を見られないという壁をやすやす乗り越えて研究が展開していくとなれば革命的な事件と言ってよい。所蔵資料の画像やテキストデータを公開する機関も増えており、いかに研究に利便をもたらしているかは、下田正弘教授が仏教学における具体例をもって報告された。
しかしここで、期待ばかりではなく筆者の不安もいくらか記しておきたい。
利用者としての我々は検索システムの恩恵を受けつつも、同時に書棚を見て歩いて図書を探してもいる。本誌を愛読される方のなかには、特になにかを探しているわけでなくとも、あるいはなにかを探すついでに図書館や書店の書棚の間を歩き、どのような本があるのかながめてまわり、気になるものは手にとってみる、そのような楽しみをお持ちの方も少なくはないだろう。趣味の範囲に限らず、研究者もこうした営為が知識をもたらし、発想の刺激になるといったことがあるはずである。図書分類の抜本的改革は新図書館の目玉のひとつであると筆者には感じられた。固定した図書分類、すなわち既成の研究の枠を提示するのではなく、各研究者がそれぞれの目的、関心に応じたキーワードから図書にたどりつくシステムが完成すれば、書架はどうなるのだろうか。図書へのアクセス方法が一新されるのであるから、従来の書架配列はさ して重要な意味を持たなくなる。利用者が各自の手元(それはおそらくパソコンやタブレット、スマートフォンなどになるのだろう)に必要なキーワードを反映した独自の図書分類目録を有し、必要とする図書に、それがどの書架にどのような順に置かれているかかかわりなく、直接向かっていくことになるはずである。その時、隣にいかなる本が置かれているかは大事ではない。ならば従来の配架順のままにしておいても不都合はなかろうが、図書は永遠に増え続けるという宿命がある(電子書籍の発達により増加率は下がるのかもしれないが)。効率よく図書を収蔵するには書庫の改革も不可欠であり、一から作り上げる図書館であればこそ新たな書庫の構築も可能となる。そこで我々を待つのは自動化書庫である。請求をすればコンピューターが図書を探しあて、届けてくれる。人が書架の間を歩き回ることもほぼなくなる。効率の点では、空間的にも時間的にもたいへんな改革である。その一方で利用者が図書の行列を目の当たりにし、図書館という「モノ」を体感する機会は失われる。筆者はこの一点が非常なる欠陥であると主張するものではない。これもまた目玉のひとつであるが、新図書館をリードするのは各方面の研究の先頭に立つ方々である。このような不安が存在するのは先刻ご承知であろう。研究者の視点で図書にタグ付けをする作業を不断に続けていれば、各々がバーチャルな書架を有し、書架を実際に歩きまわるのとほぼ変わらぬ、あるいはそれ以上の経験ができるようになる、そう確信されていることは講演からも感じとれた。筆者の不安は一種の懐古主義とお考えいただけばよいものであるが、おそらく同様の寂しさを覚える方も少なくないであろうと思い、一言申し述べた次第である。
いまひとつの不安は、「モノ」としての図書に触れる経験についてである。図書、なかでも唯一無二の貴重書を管理することも図書館のたいせつな役割である。地理的、時間的、金銭的、所属先や身分など、それを見ることを阻んでいた制約をデジタル化が一掃してくれる、その期待は大きい。しかしそれは同時に貴重書が「モノ」として目の前に現れてくれなくなることにつながりはしまいか。
東大の図書館ではないが、筆者などが貴重書の閲覧を申請すると、「それはデジタルデータがあるのでそちらをご覧ください」と言われることが多い。もちろん、テキストデータやデジタル画像でわかる範囲のことであれば、わざわざ現物を 出してもらい一枚一枚めくることで貴重資料に負担をかける必要はない。保存のことを考えれば、動かさずに済むならそれが一番よい。しかし、多様化し、変化する研究に対応することが新図書館の使命であるのならば、どれほどデジタル化が進もうとも実物に触れない限りは進まない研究が存在する こと、これからも生まれるであろうこと、制約を乗り越えはるばる実物を確かめに来る研究者はいなくならないであろうことも想定し、そのための扉は開いておくべきであろう。貴重資料保護のために現在以上の条件を付け加えるにしても。
この不安も想定内のことで、対策もすでに講じられているのかもしれない。ただ本シンポジウムは、いかに変わっていくか、変わっていかねばならないかという改革視点から語られる性格がいささか強く、いままでできていたこと、これまで通りであってほしいことが維持できるのか、どうなるのかという話題はあまり語られなかった印象があるゆえ、ここに記すことにした。
最後に、強い印象をうけたことを記しておきたい。羽田教授のことばである。要約すれば、東京大学にアジア図書館が新設されたと聞けば、海外の日本学研究者は当然日本学の資料も収蔵されていると期待してやってくるであろう、しかし日本では日本学はアジア研究に含まないことが多い、この認識のズレをいかに考えるか、ということである。東京大学大学院が日本文化研究専攻とアジア文化研究専攻を有しているように、日本において日本研究がアジア研究とは別に一家を成していることは筆者も承知している。アジアの一部としての日本に注目し、明確に境界を引くことをよしとしない研究があることも理解している。それは「自己」の範囲をどこまでと見なすかの違いである。研究対象として「自己」と「他者」を分けることは日本以外の地域でも見られることであろうし、人間が周囲を認識する順序を考えれば当然のことである。国内外の研究と常に連動していくということは、この異なる「自己」認識を有す人々が緊密に連携しあうことにほかならない。新図書館の構築とは、単に新しい建物ができ、大量の図書が一か所に集まり便利になるということではない。我々が「自己」と思っているものを「他者」と見なして研究する人々をも呼びよせるということである。逆もまた然り。我々が無意識にもっていた「自己」と「他者」を検討しなおすきっかけともなるのである。これには蒙を啓かれる思いがした。
ならばなぜ「アジア」なのか、図書館が先に枠を規定することは必ずしも研究に利をもたらさないという主張と矛盾しないか、あるいは運営の都合で定めた枠ではないのかなどと失礼な邪推もした。しかし「アジア」というそもそも既定のあいまいなもの、多様性を言えばきりがなく、アジア的な共通性というものはなかなか見出し難いにも関わらずなぜか多くの人がなんとなくアジア的と認めてしまう、複雑で興味深い単位であるからこそ、これからの図書館のありかたを提案するモデルケースとなり得るというその意気込みにまずは期待し、注目していきたい。