岩佐一枝
日本学術振興会特別研究員、彝語研究者
*岩佐一枝氏は、世界的にも希少な彝語研究者で、「ACCU寄贈識字教育資料」における彝語資料の目録作成にご協力くださいました。今回、彝語の言語学的特性・社会的状況、および実際に資料を調査して得られた知見を解説くださいました。ご寄稿に感謝申し上げます。ACCU寄贈識字教育資料の概要はこちらをご覧ください。
『ꁱꂷꌷꅍꄯꒉ(『彝文识字课本』)』, 『ꌷꅍꄯꒉ(『农村实用课本』)』, 『ꇮꃅꂿꑘꊿꇢꎙꌶꅉꀁꂥꊐꌠꌷꅍꄯꒉ ꌗꁈ ꊁꋐꌠ(『工农业余算术课本』)』のテキストは、いずれも「彝語」という少数民族言語で書かれている。
彝語はチベット・ビルマ語派のロロ・ビルマ語支に属し、中国西南部の四川省、雲南省、貴州省、広西壮族自治区、及びベトナム北部やラオス東北部で話されている。中国国内で使用されている彝語は、北部、南部、東部、東南部、西部、中部の6方言に分類されているが、このうち、西部、中部方言を除く4方言が独自の文字体系とそれによって記された文献を多数有している。
ちなみに、ベトナムでは花ロロ(Lô Lô Hoa)と黒ロロ(Lô Lô Ðen)の2方言が、ラオスではロロ・ポと称される彝語方言の一つが話されているが、共に今のところ彝文字・文献が使用されているという報告はない。
彝族の人口は、2010年に中国で実施された国勢調査(第六次全国人口普查)により約871万人と報告されている。先述の通り、中国の彝族は中国西南部一帯の広範な地域に居住しているため、各地域の気候や社会環境は様々で、比較的厳しい自然環境である山岳地帯に居住する集団もいれば、気候温暖で自然豊かな平地に暮らす集団もいる。また、社会制度も地域毎に異なっており、例えば、中国解放前の彝族社会(四川等)の一部に、かつて奴隷制度があったことはよく知られている。
ベトナムの彝族(当地ではロロ人=người Lô Lôと称される)は、主に中国との国境近くのベトナム北部に居住しており、2009年の国勢調査によれば、その人口は4541人である。筆者が黒ロロ方言の調査でカオバン省を訪れた2001-2002年当時、当地の彝族は省都から遠く離れた山奥の村でほぼ自給自足の生活を送り、初等教育も満足に受けていないような状況で、ベトナム語はおろか、当地のリンガフランカであるタイ語の一種もほとんど通じなかった。ところが、現在はベトナム語による初等教育が実施されるようになった上、近隣の村々が棚田広がる風景を売りに、すっかり観光地化してしまったとのことで、彼らを取り巻く言語・社会環境が、この数年の間に目まぐるしく変化したであろうことは想像に難くない。
ラオスの彝族はラオス北部に居住し、2005年の人口統計によるとその人口は1691人である。大半はポンサリ県に住んでいるが、2003年に一部がルアンナムター県へ移住したという。[1]
ベトナム及びラオスの彝族や彝語に関する報告や研究は、中国の彝族や彝語に比べ、まだまだ少なく、今後更なる調査が望まれている。その一方、中国の彝族や彝語については、これまで多くの研究がなされている反面、今なお未調査の方言もあり、今後も引き続き更なる記述・研究が待たれる。そして、これまで専ら漢語訳にとどまっている彝語文献の研究に関しては、彝文字の歴史的変遷過程の解明や、彝語文語の言語学的研究等が今後の大きな研究課題となっている。
さて、ではここで『彝文识字课本』, 『农村实用课本』, 『工农业余算术课本』について目を向けてみたい。
これら三冊は全て、彝語のうち中国四川省大涼山一帯で使用されている北部方言で書かれており、表記に用いられているのは、総数819文字の「規範彝文」と呼ばれる表音節文字である。
四川省の涼山地区では1970年代から伝統的な彝文字を整理し、一般に普及させるべく計画が進められたが、この「規範彝文」が正式に制定されて国の批准を受けると、これを用いた教科書や書籍、「涼山日報」といった新聞の発行などが始まった。
彝文字や文献の伝承・保存の観点からみても、また母語の能力を維持し、民族のアイデンティティを保持するという観点からみても、四川でのこの取り組みは極めて興味深い。ややもすれば、漢語使用に流れていく若年層に対し、この地では初等教育から規範彝文を用いた教科書を使用するなど、母語の保持に力を注いできたが、この『彝文识字课本』, 『农村实用课本』, 『工农业余算术课本』の三冊のテキストを見ると、その取り組みは単に義務教育に限らず、より幅広い年代、層を対象としている様が見て取れる。つまり、この地の彝族全体に対して精力的に彝文字の普及に努めていこうという涼山州教育局の強い意志がうかがえるのである。
そして、これらテキストは、現代彝語の北部方言の母語話者が使用するということから、そこに書かれている彝語は書き言葉ではあるものの、ネイティブが日常用いている現代彝語北部方言の特徴を色濃く反映しているはずで、その点で、生きた現代彝語を知るにはまさにうってつけの貴重な言語資料といえる。よって、ここから得られる言語データは社会言語学的にも、また一般言語学的にも利するところが非常に大きい。
それでは、これら三冊のテキストが編纂された目的は何であろうか?
それは、先にも述べたように、より幅広い年代の人々にも彝文字を習得してもらい、自分たちの母語で日常生活や労働において必要となる基礎的な知識や学力を身に付けてもらう、ということと考えて間違いないだろう。
以下に各テキストそれぞれの内容を簡単に紹介する。
『ꁱꂷꌷꅍꄯꒉ(『彝文识字课本』)』は、『彝文字識字テキスト』という意味であるが、そのタイトル通り、まさに彝文字を学ぶことに特化した教科書である。
内容は、筆画・部首の説明に始まり、彝文字や数字の実例と読み方、人名表記や呼びかけの表現から、短い読み物などが取り上げられており、段階を踏んで彝文字を習得していけるよう編まれている。途中、「文字は重要な武器となる」という文章などもあり(第六課)、彝文字を学び身に付ける重要性を説いている。
2冊目のテキスト『ꌷꅍꄯꒉ』は、彝語タイトルを直訳すれば『学習(するための)本』という意味だが、中国語のタイトルは『农村实用课本(農村実用テキスト)』となっており、彝文字を学んだ後、農作業や農村での生活に必要な知識を「彝語で」学んでいく内容となっている。
まず第一課から第四課にかけて文字と数字を学び、その後「身体部位」や「方位」、「度量衡」に関する語彙を習得する。それから、彝文字の筆画や部首、書き順についての解説などをはさみ、自然界の事象や家畜、時間に関する文字を学び、続いて農作業や用水路、交通輸送に関する語彙など、農村での生活に不可欠な知識を身に付けていく。そして、後半では領収書のような書類の書き方や簡単な計算、また唱歌も取り上げられているなど、その内容は幅広い。
『ꇮꃅꂿꑘꊿꇢꎙꌶꅉꀁꂥꊐꌠꌷꅍꄯꒉ ꌗꁈ ꊁꋐꌠ(『工农业余算术课本』)』は、中国語タイトルの方にはレベルの記述がないが、彝語タイトルの方には『労働者と農業従事者の余暇クラス 算術“初級(ꀁꂥꊐꌠ)”テキスト 下巻』とあり、初級用の内容であることがわかる。ちなみに、余暇クラスとは、勤務時間外の余暇の時間を利用して行われる社会人教育のことである。
本文は下巻であるため、第四章「分数」から始まり、第五章「百分率」、第六章「比例」と続き、巻末に練習問題の模範解答例が収録されている。
そもそも彝文字とそれにより記された文献は、元来「ピモ」と呼ばれる彝族の祭司が代々取り扱い、受け継いできたものであり、一般の人々は曾て読み書きすることが出来なかった。
文献の内容は、経典、伝説、歴史、医学、天文学など多岐にわたり、その体裁も紙に書かれたものから布、竹簡、木簡、動物の骨や角、岩に書かれた碑文など様々である。
彝文字の成り立ちには諸説あるが、年代が明らかになっているもののうち最も古いものには、15世紀に鋳造された貴州省大定県の「成化鐘銘文」がある[2]。一方、現存している文献のうち、紙に書かれたものは、その大半が19世紀末から20世紀初頭に作成されたものと推測される。
規範彝文が完全に表音節文字化されているのに対し、「ピモ」が扱う古文献に書かれている彝文字はその多くが表意文字である上、異体字も多く、各地で「仮借」が進んでいるものの、地域によっては文字の総数が8千から1万ほど(さらに多数の文字があるという地域も)にもなるといわれている。
更に、彝語方言間では音韻面や語彙面における方言差が大きく、意思の疎通は困難とされているが、これは文字に関しても同様で、彝文字の字形や音価の違いから、他方言の文字や文献を理解するのは容易なことではない。
このような状況の下、現在では、雲南省や貴州省でもその地の伝統的な彝文字を基に独自の「規範彝文」の制定が進められ、且つ彝文字普及のためのテキスト等が刊行されている。また、これと並行して、先の北部方言を基準に制定された「規範彝文」を活用し、他の彝語方言を表記しようとする試みもある。しかしながら、先述のように方言差異が大きいため、漢字のような超方言的な統一された表記体系を確立することは今なお困難な状況にある。
現在、彝族が居住するいずれの地域においても、彝語は常に社会的・経済的立場がより優勢な言語の影響を受け、消滅の危機に瀕している。特に若年層における彝語能力の低下は著しい。そして、文字と文献の伝承に関しても、「ピモ」の高齢化と後継者不足という問題を抱え、現代方言同様危機的状況にある。今、まさに文字と文献の早急な保存・整理、並びに研究が待たれているが、この三冊のテキストのような存在がこのような現状を打破する一助となることを願ってやまない。
[1] ラオスの彝族に関する情報については、林(2015)「ロロ・ポ語音論の予備的研究」『地球研言語記述論集 7』大西正幸・千田俊太郎・伊藤雄馬(編). 言語記述研究会. 総合地球環境学研究所. 「アジア・太平洋における生物文化多様性の探究」プロジェクト (プロジェクトリーダー: 大西正幸). pp.171-205. によるが、当然ながら、本文中のいかなる誤りも筆者の責に帰するものである。
[2] 清水享(2014). 「近代から現代における彝族社会の変化と文化変容における総合的研究-涼山彝族を中心として-」(博士論文). p.3.参照。