高橋洋
日本ブータン研究所研究員、『地球の歩き方ブータン』執筆・編集
*高橋洋氏は、ブータンでの長年の取材経験と該博な知識を有するライターで、「ACCU寄贈識字教育資料」におけるゾンカ語資料の目録作成にご協力くださいました。今回、ゾンカ語、英語、地域の少数言語をめぐる社会・教育の現状、および実際に資料を調査して得られた知見を解説くださいました。ご寄稿に感謝申し上げます。ACCU寄贈識字教育資料の概要はこちらをご覧ください。
多言語国家の公用語として成立したゾンカ語
20世紀以降の移民が持ち込んだネパール語やチベット語を別にしても、ブータンでは少なくとも10以上の言語が話されています。17世紀の建国後、政治・文化の中心となった西部では、当時の首都であったプナカなどで話されていた地域言語がほぼ全域に広がりました。一方、国家統合が遅れた中部、東部では多くの地域言語が残り、ひとつの谷に複数の言語を話す村が混在するといった状況も珍しくありません。また、東部では話者数の多いツァンラカ(シャチョプカ)語が隣接するインド領も含めた広範囲の地域で、多言語社会の共通語となっており、母語話者数も国語であるゾンカ語より多いと考えられています。ネパール語の地域方言であるロツアムカも南部を中心とした共通語として普及しており、話者数は最大だという説が有力です。つまり、ブータンは歴史的にも現在でも「ブータン人ならブータン語を話すのがあたり前」という国ではありません。
20世紀初頭の王制化以前のブータンは、チベット密教カギュ派の生き仏を元首とする政教一致の国家体制をとり、各地におかれた「ゾン」と呼ばれる城塞寺院が中央政府の出先機関となりました。ゾンで用いられる公的な言語(=「カ」)として、西部の地域言語は後に「ゾンカ」と呼ばれるようになりました。このため、官職を得たり僧侶として学問を修めたりするためには、ゾンカ語が母語ではない地域であってもその習得が必須の教養となりました。言い換えればゾンカ語は特に中部、東部、東部において民衆の生活とは直接の接点がない「お上(官)」の言葉であると同時に、多言語社会全体を国家としてまとめあげる求心力を象徴する言葉でした。
近代国家の「国語」としての位置づけと教育
このような歴史的背景もあって、20世紀中頃に近代国家としての体制を整える過程で、ブータンはゾンカ語を国語として採用しました。ただし、この時点でもゾンカ語は話者数からいえば圧倒的だったわけではなく、また母語がゾンカ語である西部でも読み書きの能力があるのは官僚や僧侶などに限られていました。さらに、経典や公式文書、あるいはブータン人僧侶の伝記などには古典チベット語文語が用いられていたため、ゾンカ語は口語としての利用が中心で、ゾンカ語による古典文学や歴史資料は例外的な存在です。
20世紀に国語として新しい時代を迎えたゾンカ語は、言文一致、科学技術分野や近代思想分野などの新語の創作といった課題に直面することになりました。このあたりは明治時代の日本語の状況と似ています。しかしブータンが学校教育の教授言語として英語を選んだことでその後の状況は大きく変わりました。1960年代に始まった公的学校教育では、ゾンカ語以外の全ての教科が英語で教えられており、その中には歴史や作文といった科目も含まれています。ゾンカ語は必修ではあるものの時間割は限られており、日本で言えば古典や習字に近い位置づけです。現在、ブータンの初等教育就学率は95%に達し、この半世紀で識字率は飛躍的に高まりましたが、その中心となっているのは「英語の読み書きは不自由ないが、ゾンカ語の読み書きには自信がない」という人たちなのです。
日常生活で要求されるリテラシーと言語
こういった英語リテラシーの優位は教育・教養レベルに限りません。たとえばホワイトカラーとして職を得るためには英語の読み書き能力が決定的な判断材料となる一方でゾンカ語については不問というのが一般的です。日常生活の中でもメモや手紙といった私的なものから注意書き、説明書といったものまで英語が用いられます。たとえ外国人であってもゾンカ語を「読めない」ための生活上の不便はほぼありません。役所などの手続きも英語が基本です。つまり近代的社会生活における識字能力とは、ブータンの場合、現実的には英語リテラシーを意味します。言い換えれば英語は読めないがゾンカ語なら読めるという人は社会的なハンディを負うことになります。
今回目録作りを行った識字教育資料(ゾンカ語)の中には「容器のラベルの文字が読めないため誤って農薬を飲んでしまった」「病院に行っても処方箋が読めない」「(識字教育の結果)道路の崖崩れを後続車にサインボードで知らせることができた」といったストーリーで識字教育の意義を解説するものがありました。しかしブータンでは商品パッケージの記述は英語が基本です。医師には病名を正確なゾンカ語で書けない人が多いでしょう。危険を知らせるなら「STOP!」と書いたサインボードを用意する方が現実的で、実際にそういったケースでは英語が利用されています。会話においては国語であるゾンカ語が一般に用いられているのですが、文字コミュニケーションになると英語が主流になるという、多言語社会特有の変則的な二重構造が一般化しているのです。
ゾンカ語による教育の社会的意味
このような状況の中で識字教育をどのような言語で行うかは難しい問題をはらんでいます。現実として社会的に要求されるのは英語の読み書きの能力ですが、だからといって識字教育の学習者に対して――ブータンのすべての小学生がそうしているように――「まず英語の学習から始めなさい」というのは非現実的でしょう。実際に今回の識字教育資料もすべてゾンカ語でした。しかし前述のように正規教育においてゾンカ語が利用されるのはゾンカ語そのもの、あるいは伝統文化の学習など限られた局面においてのみであり、それ以外の知識はすべて英語によって伝えられています。言い換えれば、教育の現場でゾンカ語のテキストが利用されるのはノンフォーマル教育の現場のみということになります。
社会全体がこのような教育システムを前提とするため、学校内に限らず一般に何かの知識を文字から得ようとすれば、英語の資料を探す方が楽だというのがブータンの現状です。例外は仏教関係などに限られるでしょう。そう考えると資料の中に農業、木工、染織に関するマニュアルや指導要領がいくつか含まれていた理由が理解できます。これらはおそらく一般のゾンカ語実用書を識字教育のためにアレンジしたものではなく、本来は英語で書かれているものをゾンカ語に翻訳したものでしょう。極端に言えば、ゾンカ語による教育・学習自体がブータンでは例外的な、つまり「非正規な」状況となるわけですから、ノンフォーマル教育という枠組みの中で、ゾンカ語のリテラシーはあるが英語のリテラシーはないという人の学習支援を行うことには必然性があります。また、そういった公的支援がなければ、十分な市場規模がないゾンカ語による教育や知識伝達の機会は縮小する一方でしょう。
言語教育の基本政策と識字教育
しかし同時にそれは正規の学校教育が半世紀かかっても解決できなかった、また今後も見通しが立っていない「自国語による教育」という課題を、ノンフォーマル教育の現場が抱え込むことを意味します。しかも、最初に述べたような言語状況から、ノンフォーマル教育の学習者が必ずしもゾンカ語話者とは限りません。近年の全体的傾向としては学校教育やマスメディアの普及がゾンカ語の全国化に寄与しているといわれています。しかしノンフォーマル教育の対象者となるのはむしろその両方へのアクセスが限られてきた人たちでしょう。「自国語による教育」というと「外国語による教育」より容易であるように思えますが、母語がゾンカ語ではない過半数の国民にとって「ゾンカ語による教育」は「外国語による教育」と本質的には同じです。また、だからこそ正規教育における教授言語として英語を選択したことに、多言語国家としての歴史的合理性があるという側面も無視できません。
別の見方をすれば、英語をベースとした正規教育において母語の違いによるハンディはわずかであるのに対し、もしノンフォーマル教育がゾンカ語のみをベースとするならば、ゾンカ語以外を母語とする地域の国民は不利な立場に立つことになるわけです。かといって、正規教育でも不可能な多様な地域言語に応じた教育をノンフォーマル教育の枠組みで実現することは、コスト面だけをとってみてもさらに難しいでしょう。こういった課題は識字教育、あるいはノンフォーマル教育という枠組みの中だけで解決できるものではなく、国家的な言語政策の中で総合的に取り組むべき大きな課題だといえます。ブータンのような大国に挟まれた小国にとって、ナショナルアイデンティティは国家存続のひとつの鍵です。しかし、その国策の舵取りをするべき知的エリートが既に「英語の読み書きは不自由ないが、ゾンカ語の読み書きには自信がない」状態であるということが、この問題の解決の難しさを物語っています。
僻地の診療所
医師は常駐していない僻地の診療所。家族計画や社会保健(HIV対策など)の保健所的な機能もあるので啓蒙用の資料がたくさんありますが基本的に英語です。
学校
地方都市の学校の掲示板。日常的な会話のコミュニケーションでは英語、ゾンカ語、その地域の地域言語が場合に応じて使い分けられているようですが、教科書はもちろん、校内のお知らせから校内放送まですべて英語です。
学校の標語
数年前に道路が開通するまで、最寄りの道路まで歩いて3日というブータンでも指折りの僻地の小学校。こういった場所でも時間割や標語まで英語です。写真左端に少し写っているように建物はブータン風です。
早期教育
早期教育センターの看板。看板はこのような2言語表記が原則です。ECCDは最近急速に普及しつつある就学前教育のための施設で、英語の早期習得に力を入れています。
道標
最近は2言語表記が主流になってきましたが、最近まで道路標識も英語が基本でした。これは道路の建設や管理をインドが中心になって行って来たという事情もあるようです。
ブータン最古の本屋
「ペカン(本屋)」という店名でもわかるとおり、ブータンで最初にできた書店です。現在は首都ティンプーに5~6軒ほど、インド国境の町に何軒かありますが基本的に同じようなスタイルで、商品の大半は英語の参考書や小説、ごく一部が仏教関係を中心にしたゾンカ語の書籍で文房具も扱うというスタイルです。
ゾンカ語の書籍を中心に扱う唯一の書店であるKMT書店の店内です。写真中央に積まれている羊羹状の紙束はお経で、仏画や宗教儀式用の用品も扱っています。また、版元としてゾンカ語本、ゾンカ語本の英訳本の出版なども手がけており、今回の識字教育資料の中にもこの書店が印刷所になっているものがいくつかありました。
最近できたおしゃれな書店です。写真のように洋書しか扱っていません。ブータンの出版文化は「仏教文化-ゾンカ語(チベット語)」の世界と、「近代化-英語」に2分化しているので、一般的な意味での「娯楽として読書を楽しむ」といったスタイルは基本的に英語が前提になります。