デジタルで発見!瀧川亀太郎の筆跡~「台湾華文電子書庫」のリリースを祝して~

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筆者の郷里である島根県松江市の旧市街には塩見縄手という通りがあり、江戸時代には松江藩士の屋敷が建ち並んでいたが、いま一軒だけが往時の姿をとどめ、松江市にとって貴重な観光資源となっている。

松江市指定文化財 武家屋敷

松江市民でも知る人は少ないだろうが、この武家屋敷の裏庭の外れには、この屋敷の最後の主である瀧川亀太郎(たきがわ・かめたろう)を記念して1975年に建立された碑が鎮座している(上掲写真=筆者撮影)。

瀧川亀太郎博士(1865-1946)は、松江城下の武家に生まれこの武家屋敷で成長し、東京帝国大学古典講習科卒業ののち仙台の第二高等学校で教授を務め、晩年再びこの屋敷に退隠した。

『史記会注考証(しきかいちゅうこうしょう)』こそは瀧川による一大業績であり、司馬遷の『史記』に対する最も完備された注釈書として、現在に至るまで世界の『史記』研究を牽引してきた。

この『史記会注考証』は、昭和7年(1932)に東方文化学院東京研究所からはじめて刊行されたが、このときの初版本は海を渡り、当時日本の領土であった台湾にまで送り届けられていた……

 

さて時は移って21世紀の台湾、国家図書館から最近、「台湾華文電子書庫」という新しい電子図書閲覧サービスがリリースされた。

臺灣華文電子書庫 中文 / English

このサービスでは、すでに著作権が切れパブリック・ドメインに帰している出版物や、台湾の地方公共団体による刊行物、さらに「百人千書(1000 Books by 100 People)」活動に賛同した著作権者が国家図書館に権利を委譲した著作をデジタル公開し、誰でも自由に閲覧できるようにしている(ダウンロードはできない)。電子化された資料は、国家図書館自身の蔵書に加え、国立台湾大学図書館等の台湾における重要な所蔵機関からも提供されている。「華文」とは中国語の意だが、現代中国語だけでなく古典中国語による書物(漢籍)も多く、またたとえば『日本降伏當時の米國』など、日本語の書籍もまれに混じっている。

さらに、デジタル公開されている資料は台湾で発行されたものに限らず、民国期の中国大陸、あるいは日本で出版されたものも多い。そのなかで筆者の目に止まったのが、上述の『史記会注考証』である。

史記會注考證一 v.1

画面を転載して紹介したいところだが、国家図書館に禁止されているので、上のリンクを開いてご覧いただきたい。その2ページ目、元の本の見返しの部分に、「天随学兄恵存 昭和七年仲春 資言」と毛筆で書かれている。その次のページ(封面)には「久保氏所蔵図書記」の印が捺されている。さらに同書の第2巻

史記會注考證二 v.2

を見ると、2ページ目の見返しには「資言之印」「君山学人」の2印、次ページに第1巻と同じ久保氏の印、その次の空白ページに「台北帝国大学図書印」と「272408 昭和9.10.31」の受入印があり、そのまた次のページ(巻六の巻頭)には「台北帝国大学図書」と「読太史公書」の2印が見える。

ここで登場した新たな人物は、久保得二(くぼ・とくじ、1875-1934)、号を天随(てんずい)と称した漢文学者である。昭和3年(1928)に創立した台北帝国大学文政学部の教授を務め、在職のまま台北で亡くなった。

『史記会注考証』の愛読者ならばむろんご存じだろうが、「資言」とは瀧川亀太郎のもう一つの名である。『史記会注考証』各巻の巻頭には「日本出雲瀧川資言考証」とあり、出雲人たる筆者としては何とも晴れがましい。久保は瀧川よりも年少だが、知識人どうしの交際において、年少者を「学兄」と呼ぶのはごく普通の礼儀で、年長ならばむしろ「先生」等と敬称するはずである。「君山」は瀧川の号であり、最初に掲げた碑石には「瀧川君山先生故居」と刻されている。

以上の情報を整理すると、『史記会注考証』が刊行された1932年、その年の春に瀧川は久保に宛てた為書きを記し捺印して、台北に郵送した。久保はそれを台北にて受領し、「久保氏所蔵図書記」の印を捺した。そして1934年に久保が亡くなると、同書は台北帝国大学の所蔵となり、10月31日に受入処理がなされた。台北帝国大学の廃止後、その建造物や蔵書は台湾大学にそのまま継承されたため、久保旧蔵の『史記会注考証』が、時を経て台湾大学図書館によって電子化され、このたび上述の「台湾華文電子書庫」において公開されることになったのである。

東方文化学院東京研究所版『史記会注考証』は、少なくとも日本国内においては決して珍しい本ではなく、日本の研究者がわざわざ台北に赴いて閲覧することはまずないだろう。「台湾華文電子書庫」のおかげで、筆者ははじめて郷土の偉人の筆跡と印影とを目にすることができ、とても感動している。台湾の関係各位には深く感謝したい。

最後に、疑問が一つ残っている。巻六の巻頭に捺された「読太史公書」印は、誰の印なのだろうか? 瀧川と久保のいずれだろうか? この疑問について筆者はこのように考える。「太史公書(たいしこうしょ)」とは、『史記』の別名(より正確に言えば、「太史公書」のほうが古い書名で、「史記」は後世に定着した呼び名)であり、「史記を読む」という字句を刻したこの印は、久保よりは、その一生を『史記』研究に捧げた瀧川の手によくなじむだろう。いつかどこかで、この「読太史公書」印を再び目にする機会を、筆者は楽しみにしている。

U-PARL特任研究員 成田健太郎