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東京大学附属図書館アジア研究図書館
上廣倫理財団寄付研究部門
Uehiro Project for the Asian Research Library

COLUMN

映画『ベトナムを懐う』と『夜鼓懐郎(Da co hoai lang)』

ベトナム南部、メコンデルタの風景

 

「ベトナムの音楽で一番好きな歌は?」と聞かれたら、私は真っ先にカイルオン(cải lương)の名歌、『夜鼓懐郎(Dạ cổ hoài lang /ザ・コー・ホアイ・ラン)』を思い出す。作詞・作曲を行ったのはカオ・ヴァン・ラウ(Cao Văn Lầu, 1892~1976年)。1919年にベトナム南部ロンアン省で生まれ、バックリェウ省で活躍し、1945年以降は革命運動にも従事した音楽家だ。歌のタイトルは、「夜の太鼓の音を聞いて、(遠く離れた)夫を想う」という意味である(註1)。

カイルオン(改良劇)とは、ベトナムの伝統演劇ハット・ボイ(hát bội、別名トゥオンtuồng)の「改良」を目的にフランス植民地期のベトナム南部で生まれた歌劇で、現在に至るまで南部を中心に愛好されている。発表当時、『夜鼓懐郎』は2小節の曲だったが、その後『望古懐郎』(Vọng cổ hoài lang/ヴォン・コー・ホアイ・ラン)と改称され、しだいに4小節、8小節、16小節、32小節、64小節に変更されていった。ヴォンコー(vọng cổ /望古)とはカイルオンの劇中歌のジャンルのうちの一つであるが、『夜鼓懐郎』はヴォンコーのはしりである(註2)。

 

ホーチミン市1区に今でも残る村落守護神の神社、人和亭(Đình Nhơn Hòa)。

祭礼時にカイルオンの舞台を見る人々

 

今でもベトナム南部の人々の間で『夜鼓懐郎』は絶大な人気を誇っている

私がこの歌をはじめて聴いたのは、2000年代半ばの留学中のことだった。ある日友人たちと連れ立って行ったカラオケ屋で、友人が十八番として熱唱しているのを聴いたのだ。少しでもベトナム語をかじったり、ベトナム音楽を聴いたりしたことのある人間なら、「蜂蝶の道を行けども 糟糠の義に背くことなかれ」といった漢喃文調の歌詞、そして哀愁を帯びたメロディーを持ったこの歌が、流行りのポップスとも、ザンカー(dân ca/民歌)と呼ばれるベトナム演歌ともまったく違う系統の歌であること、そしてこの歌には「格」とでも呼べるものが備わっているのがすぐわかる。歌詞どころかタイトルの意味もわからないのにこの歌に魅了された私は、タイトルをメモしながらひそかに決意した。いつか彼らの前で歌ってみせると。

下宿で夜な夜な練習してみたものの、生来音痴の私が歌うにはこの曲は難しすぎた(註3)。あきらめた私は、この歌目当てでチャン・フー・チャン・カイルオン劇場(Nhà hát Cải lương Trần Hữu Trang)にカイルオンを見に行ったり、カイルオンの元子役、在外ベトナム人歌手フオン・ラン(Hương Lan)のライブに出かけたりした(註4)。カイルオン劇場でもライブハウスでも、この歌になると空気が変わった。

2019年4月現在、日本で公開中の映画『ベトナムを懐う』(2017年ベトナム/グエン・クアン・ズン監督)の原題はDạ cổ hoài lang。いうまでもなくテーマソングである歌名そのもので、邦題「ベトナムを懐う」の「懐」は歌名の一字から取られている(註5)。映画の中では数度にわたりこの歌が流れる。歌詞の日本語字幕は秋葉亜子さん訳。漢喃文調ではなく、美しい現代文に訳されていて読みやすい。それでいて原文の格調高さが映画を見る者に伝わってくるのは、シックな男性用アオザイや、水墨画で描かれたメコンデルタの風景、伝統弦楽器の音色といった東アジア的な要素が画面に展開するからだろうか。

2015年にアメリカで開催されたミス・ユニバースでベトナム代表のファム・フオン(Phạm Hương)は『夜鼓懐郎』を歌った(なお彼女は北部出身である)。どうやら現在のベトナムには、『夜鼓懐郎』を南部名物カイルオンの名曲にとどめるのではなく、ベトナムを代表する伝統歌として世界に広めようという動きがあるようだ(註6)。いやそんな考えは無粋だろう。とにかくこの歌にはベトナム語という言語の枠を超える力があるのだ。かつて私を虜にした力が。

2019年4月18日掲載[U-PARL特任研究員 澁谷由紀]

<註と参考資料>

註1:ベトナム語のDạ Cổ Hoài Langにどのような漢字・チューノム(字喃)をあてるのかは諸説ある。ここではカオ・ヴァン・ラウの生涯に関する先行研究の中で記述されている現代ベトナム語訳に従い『夜鼓懐郎』とした。Thạch Phương, and Lê Trung Hoa eds. 2001. Từ điển thành phố Sài Gòn – Hồ Chí Minh. Tp. Hồ Chí Minh: Trẻ. p.143.

註2: ホーチミン市の地誌の芸術編、カイルオン史に関する項目に、『夜鼓懐郎』についての記述がある。Hoàng Như Mai. 1998. “Sân Khấu Cải Lương.” In  Địa chí văn hoá Thành phố Hồ Chí Minh. Vol. 3, Nghệ thuật. Tp. Hồ Chí Minh: Tp. Hồ Chí Minh. p.181. 地誌については著者の別記事「ベトナムの地誌:フィールドワークに出かける前に」を参照。

註3:ベトナムの一弦琴ダンバウ(đàn bầu)用の楽譜はBùi Lẫm. [2010]. Đàn bầu căn bản. Hà Nội: Âm nhạc. p.69.に掲載されている。

註4:著者の手元にあるフオン・ランのアルバム『南の悲しみ(ディウ・ブオン・フオン・ナム(Điệu Buồn Phương Nam/ディウ・ブオン・フオン・ナム』(VB. Star và HOANG DINH Co.,Ltd.)には『夜鼓懐郎』が収録されている。ダウンロード全盛のいま市場は成立しないのか、ベトナムで音楽CDを入手するのは難しくなってしまった。

註5:映画「ベトナムを懐う」のタイトルと映画の原作となった舞台、在外ベトナム人コミュニティーについての解説は下記を参照。加藤栄. [2019].「『ベトナムを懐う』に描かれたベトナムの歴史と精神文化」(『ベトナムを懐う』劇場用パンフレット). pp.8-9.  在外ベトナム人とベトナム社会主義共和国との関係は次の専門書を参照のこと。古屋 博子. 2009.『アメリカのベトナム人―祖国との絆とベトナム政府の政策転換』東京:明石書店.

註6:下記の記事の中ではユネスコ無形文化遺産に登録されたベトナム南部の伝統楽曲「ドンカー・タイトゥー(Đờn ca tài tử)」と『夜鼓懐郎』が結びつけられている。Nguyen Thuy, translated by Yuki SHIBUYA. 2018. 「ふるさとに寄り添う唄」『ヘリテイジ・ジャパ ン(HERITAGE japan)』32. pp. 20-27.