オマル・ハイヤーム『ルバーイーヤート』研究の現在

特任助教 徳原靖浩


 学生時代に夜の街でアルバイトをしていた頃、カウンターに座ってグラスを傾けるビジネスマンとの会話で、私がペルシア語を勉強していると言うと、「岩波文庫の『ルバイヤート』、あれは良いよな」と言われて驚いたことがある。インターネットも携帯電話も普及していない時代に学生生活を送った知識層にとっては、岩波文庫ぐらい読んでいて当たり前だったのかも知れないが、まだ社会に出ていなかった学生の私には、イランともペルシア語とも関係なさそうな〈おじさん〉が、中世ペルシアの偉大なる賢者オマル・ハイヤームの詩集に親しんでいるということが意外だった・・・

と、わざわざこんなエピソードを引き合いに出すまでもないが、日本で最も読まれているペルシア文学作品は何かと問われたなら、オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』を挙げておくに如くはないだろう。

ルバーイーヤートとは?

 ルバイヤート、より丁寧に表記すればルバーイーヤート(rubā‘īyāt)とは、ペルシア詩の詩形の一つであるルバーイーの複数形であり、一編が四つの半句(miṣrā‘)からなることから、一般に「四行詩」(英語ではquatrain)と訳される。普通名詞である「ルバーイーヤート」が、もっぱらオマル・ハイヤームの四行詩集のタイトルとして世界的に知られるようになるきっかけを作ったのは、ヴィクトリア朝期の英詩人エドワード・フィッツジェラルド(1809-1883)による、大胆かつ創造的な英訳であった。独自の詩的インスピレーションに基づいた『オマル・ハイヤームのルバーイヤートThe Rubáiyát of Omar Khayyám』(1859年初版、以後改版を重ね、最終版は死後に出版された第5版、1889年)がヨーロッパの文学者の間で人気を博すと、これと競うようにして、J・B・ニコラ(1814-1875)、E・H・ウィンフィールド(1836-1922)、J・マッカーシー(1860-1936)、E・ヘロン=アレン(1861-1943)、A・クリステンセン(1875-1945)など、数多の学者たちが各国語訳を発表した。これら翻訳を介して、日本の文学者にも『ルバーイーヤート』が知られるようになり、明治時代から今日に至るまで数々の翻訳(重訳)が試みられてきた(注1)。

 ペルシア語原典にもとづく翻訳も、荒木茂による「オムマ・ハヤムと四行詩全訳」(『中央公論』大正9年10月)を皮切りに、澤英三、小川亮作、黒柳恒男、岡田恵美子、陳舜臣らによって発表されてきた。それらの中で今日最も親しまれ、日本での普及に貢献したのは、やはり冒頭で触れた、1948年に岩波文庫の一冊に加えられ、今も書店で手に取ることができる小川亮作訳『ルバイヤート』であろう。

岩波文庫版『ルバイヤート 』写真

岩波文庫版『ルバイヤート』。右はワイド版。

懐疑、刹那、酒の詩人ハイヤーム

 さて、ハイヤームの詩といえば、

われらが来たり行ったりするこの世の中、
それはおしまいもなし、はじめもなかった。
答えようとて誰にはっきり答えられよう——
われらはどこから来てどこへ行くやら?
(小川亮作訳『ルバイヤート』岩波文庫、p. 17、第10首)

 

と、世界の無目的性と人生の儚さを嘆き、

この万象の海ほど不思議なものはない、
誰ひとりそのみなもとをつきとめた人はいない。
あてずっぽうにめいめい勝手なことは言ったが、
真相を明らかにすることは誰にも出来ない。
(同p. 16、第8首)

 

と、人間が世界の真理に到達できないことを認め、

酒のもう、天日はわれらを滅ぼす、
君やわれの魂を奪う。
草の上に坐って耀う(かがよう)酒をのもう、
どうせ土になったらあまたの草が生える!
(同p. 56、第64首。丸括弧内は本文ではルビ)

 

というように、終わりなき日常を生きる糧を、あるともないとも知れぬ来世(楽園)への希望ではなく、現世の刹那的な悦楽に求める詩で知られ、飲酒詩人としてのイメージも定着している。こうした人物像は、日本においても『ルバーイーヤート』が多くの人に愛される上で大きな役割を担っているように思われる。

黒柳訳注『ルバーイヤート』写真

黒柳恒男訳注『ルバーイヤート』(大学書林、1983年)

定本なき名著

 しかし、既に多くの解説等で述べられているように、これまでに刊行された数々の『ルバーイーヤート』に収められた詩の内、どれが真にハイヤームの作であるのかについて、確実なところは知られていない。いわば、『ルバーイーヤート』には定本が存在しないのである。

 『ルバーイーヤート』に限らず、中世の文学作品の場合、原著者の手稿は存在せず、写字生など第三者による書写を繰り返して後世に伝わっていることが一般的である。そのようにして伝えられた写本の間には、誤記や意図的な変更によって異同が生じるのが常であるから、その校訂(本文批判)作業には非常な時間と労力と才覚が要求されるものである。さらに詩集の場合には、詩の作者と詩集の編纂者が同じとは限らない。写本によって収録する詩に違いがあることも珍しくなく、『誰某の詩集』のようにタイトルは同じでも、別の選集と考えたほうが良い場合もあるだろう。

 『ルバーイーヤート』の場合、現存する写本の中で最も古い日付が明記されているものは、英国ボドリー図書館アウスリーOusleyコレクション第140番として知られるもので、158首の四行詩を収録し、ヒジュラ暦865年サファル月下旬、西暦に換算すれば1460年12月前半(注2)にシーラーズで書写されたと明記されている。しかし、この写本と並んでフィッツジェラルドが底本に使用した「カルカッタ写本」の収録首数は516であり、その他の写本もそれぞれに収録首数が異なっている。複数の写本を照合して校訂を行おうにも、何を基準とすれば良いのか判然としない(注3)。

 一番古い写本が最も信頼できるかと言えば、そうとも言い切れない。上記のボドリー写本にしても、ハイヤームの生きたとされる時代(西暦11世紀後半から12世紀前半)から悠に300年以上経っていることになる。その間の伝承経路が不明であるため、より新しい日付を持つ別の写本が、よりオリジナルに近い形を保存している可能性も否定できない。写本ごとに収録する四行詩の数が大きく異なることは、ヨーロッパの東洋学者たちにとって頭を抱える問題であった。それを反映して、彼らの校訂した『ルバーイーヤート』も、収録首数がバラバラで、公認本文(Textus receptus)と呼べる定本を提示するに至っていない(注4)。

ルバーイーヤートCDの写真

イランの現代詩人アフマド・シャームルーが朗読する『ルバーイーヤート』のCD。音楽とともに30首を収録。

真の『ルバーイーヤート』を求めて

 これに対し、イランの研究者たちは、ボドリー写本が作られるヒジュラ暦865年以前に、神学や文学、歴史などの分野の古文献の中で、ハイヤームの作として断片的に(1から数十首単位で)引用されている四行詩を、より信憑性の高いものとして重視した。既に繰り返し解説されているのでここでは詳述しないが(注5)、小川訳の底本となった、イランの作家サーデグ・ヘダーヤトによる選集『ハイヤームの歌(四行詩)Tarānah´hā-yi Khayyām』(1934-5年公刊)は、二つの古文献に引用される計14首を、基本の鍵となる詩とみなし、その作風を基準として、他の写本から計143首を選りすぐったものである。

 その後、イランの権威ある研究者であったM・A・フォルーギーとQ・ガニーは、より多くの古文献における引用から66首を基本となる詩として選び、それをもとに178首を選定し、『ハイヤームのルバーイーヤートRubā‘īyāt-i Khayyām』として1942年に公刊した。これが黒柳訳の底本となった。

 したがって、今日私たちが日本語で親しんでいる『ルバーイーヤート』は、遅くとも1942年以前の研究に基づく選集であって、そこで採用されている、少数の試金石となる詩をもとに、大量の写本の中から詩を選別するという方法は、方法論としても素朴に過ぎ、今や真実に近づく最善の方法とは言えまい。訳者ら自身、「今日真作と偽作とを区別することは容易な業ではない」(岩波文庫版、p. 164)、「永遠の解けぬ謎」(黒柳恒男訳注『ルバーイヤート』大学書林、1983年、p. xii)と述べているとおりである。ハイヤーム風に言えば、「めいめい勝手なことは言ったが、真相を明らかにすることは誰にも出来ない」のである。

 しかし、だからといってハイヤーム流の懐疑論に陥ったまま立ち止まるわけにもいかない。イランではその後も四行詩の真偽に関する議論や、科学者ハイヤームと詩人ハイヤームは別人か同一人物かといった議論が続いているが、21世紀に入って、「めいめい勝手なことは言ったが、真相を明らかにすることは誰にも出来ない」状況に一石を投じる研究が現れている。S・A・ミール=アフザリーによる『古文献におけるハイヤームのルバーイーヤートRubā‘īyāt-i Khayyām dar manābi‘-i kuhan』(テヘラン、マルキャズ出版社、2003年)は、古文献において「ハイヤームの作」と明記して引用されている(または、作者を明記しないが他の文献でハイヤームのものと明記されている)第一グループの四行詩と、ハイヤームのものと明記されていないが、ヒジュラ暦9世紀以降の『ルバーイーヤート』写本に収録される第二グループの四行詩に分け、それ以上の人為的な解釈を加えずに、詳しい典拠情報とともに列挙している。ボドリー写本を含む最初期の写本5点に収録される詩の対照表も収録しており、今後『ルバーイーヤート』を研究する上で欠かせない一冊である。

 ミール=アフザリーはその後も雑誌論文の形で研究を発表してきたが、最近、その集大成とも言える書物『ハイヤームのルバーイーヤートと〈ハイヤーム風〉ペルシア詩群』(Sayyid ‘Alī Mīr Afzalī, Rubā‘īyāt-i Khayyām: va Khayyāmānah´ha-yi Pārsi)が刊行された。テヘランのソハン出版社から初版1100部が2020年末から2021年初め頃に発売され、2021年の夏には誤植を訂正した第2版が出た。全542頁の大作である。同書で著者は、前作からさらに一歩踏み込んで、ハイヤームの詩として伝わる詩の中から、典拠の有無、初出年代、脚韻の特徴などの情報を検証し、最終的に、ほぼ確実にハイヤームの真作と言えそうな20首、ハイヤームのものである可能性がある49首、却下あるいは疑わしいもの51首を区分けして挙げている。もちろん、その方法にも今後詳しい検証が必要であり、特に脚韻のパターンの統計を判断材料に用いている点は個人的には首を傾げたくなるが、全般的にドキュメンテーションを重視する姿勢は健在であり、前作と並んで必須の一冊となるだろう。本書が今後、ルバーイーヤートの真作説や偽作説にどのように影響を与えるか、楽しみである。

ミール=アフザリー本の写真

アリー・ミール=アフザリー著『ハイヤームのルバーイーヤートと〈ハイヤーム風〉ペルシア詩群』

 

 実は、唯一現存していたハイヤームの自筆本『ルバーイーヤート』は、かの有名なタイニック号とともに海に沈んだのである・・・というのは、アミン・マアルーフの小説『サマルカンド年代記』での話で、彼一流のフィクションである(実際に沈んだのはフィッツジェラルド訳の豪華本だったとされている)が、『ルバーイーヤート』原典を求めて学者たちがリアルの世界で繰り広げる研究の世界も、これに負けず劣らずスリリングで、心躍らされる展開に満ちている。『ルバーイーヤート』を愛好する多くの人がペルシア語を学び、この楽しい古典文献学の世界に参入することを期待する。


(注1)日本における『ルバーイーヤート』の受容の歴史は、それ自体で1冊の書物をなすほどの奥行きがあり、ここでは到底紹介できない。幸い、杉田英明氏による詳細かつ網羅的な研究があるので参照されたい。杉田英明「明治日本の『ルバイヤート』」『Odysseus:東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻紀要』(20), pp. 1-37, 2016年3月;「大正日本の『ルバイヤート』」『Odysseus』(21), pp. 1-37, 2017年3月;「大正日本の『ルバイヤート』(続)」『Odysseus』(22), pp. 1-47, 2018年3月;「昭和日本の『ルバイヤート』」『Odysseus』(24), pp. 1-36, 2019年3月;「昭和日本の『ルバイヤート』(続)」『Odysseus』(24), pp. 1-36, 2020年3月;「戦後日本の『ルバイヤート』」」『Odysseus』(25), pp. 1-34, 2021年3月。
(注2)西暦への換算は計算によるもので、実際の記録とは異なる可能性がある。
(注3)ボドリー写本の画像はオクスフォード大学によって公開されている。https://digital.bodleian.ox.ac.uk/objects/44c54e4b-d102-4329-97cc-9607bdd9bee1/ (最終閲覧2022-4-17)
(注4)ボドレー写本およびカルカッタ写本と数多ある欧文訳の対応関係を知るためのツールとして以下のものがあり、大変有用である。Concordances of Rubáiyāt https://rubaiyatconcordance.org(最終閲覧2022-4-17)
(注5)詳しくは、黒柳恒男『増補新版ペルシア文芸思潮』(東京外国語大学出版会、2022年)pp. 151-152、『ペルシアの詩人たち』(東京新聞出版局、1980年)pp. 116-118.を参照。

April 26, 2022