矢後勝也先生
総合研究博物館助教
チョウを求めてアジアの多様なフィールドへ
「日本の昆虫はアジア抜きには語れない」
― ご研究とアジアの関わりについて教えてください。
チョウを主とする昆虫学をアジア中心に展開しています。DNAを使った研究だけでなく、生物地理、アジアでの生物多様性、さらには保全について研究しているので、アジアとの関わりは非常に深いです。
― チョウを研究するようになったきっかけは?
虫好きな子供が、そのまま大人になってしまった感じですね。チョウだけでなく、昆虫全般が好きだったのですが、図鑑などではチョウの情報量が圧倒的に多く、結果的にチョウの知識が増え、やがてチョウに特化するようになりました。
― 昆虫、チョウを知るうえでアジアは避けて通れないのでしょうか?
そうです。特に日本の昆虫はアジアとの関係抜きには語れません。必然的にアジアの知識が必要になります。
― 最初のアジアのフィールド調査はどこだったのでしょう?
20年ほど前、韓国に行ったのが最初です。ブータンシボリアゲハという幻の大蝶を調査するために、ブータンへも行きました。インド以東のアジアで行ったことがないのはミャンマーとラオスだけです。
― ヨーロッパでは新種の発見は少ない?
その通りです。気候のほかに地形も関係していて、ヨーロッパは比較的平坦。起伏に富んだ地形のほうが種の分化が起きやすいんです。ヨーロッパは研究者が多かったので、学問の積み重ねはアジアよりも多いです。
「標本と書籍の収蔵スペースが必要」
― ご研究と図書館あるいは本とのつながりはどうでしょう?
本とのつながりは強いです。理系の先端的な研究では、情報がほとんどウェブから取れますが、生物多様性学の分野では、数百年前のデータが重要になることがあるので、本から得られる情報が重要になります。ネットで取れるものもありますが、最近のものであれば、著作権の関係で現物を持たなければ見られない。数ページだけ必要ならばコピーを取り寄せることもできますが、全体像を知りたい――たとえば「ソロモンのチョウを知りたい」「オーストラリアのチョウを知りたい」「タイのチョウを知りたい」となると、図鑑のような大部の書籍を揃えないといけない。
― 図書館に期待されることは?
図鑑の類はサイズが大きく、すぐにスペースがなくなってしまいますので、本の収蔵スペース拡充の期待が大きいです。入れたい本はたくさんあるが、博物館では標本が最優先され、図書は二の次になってしまうことがあります。博物館に収蔵できなくても、学内にあることが重要です。スペースの関係で大型の書籍コレクションの受贈を断念するケースが解消されるとよいと思います。国内唯一であるとか、雑誌を全巻揃えているとか、もはや入手不能な大型コレクションを収蔵するスペースを期待します。
― 地下自動化書庫には300万冊入るので、期待できると思います。
小西正泰博士(元学習院大。昆虫文化史学の草分け)のコンテナ3個分の書籍コレクションの受贈に関しても、スペースの確保に苦慮しています。標本のコレクションは受贈済みなのですが。やはりスペースの問題で、別の方の生物関係の大型書籍コレクション受贈を断念した経緯もあります。
― 人文系研究者よりも昆虫研究者のほうがむしろ本をたくさん持っている?
持っている方が多いです。分類学、生物多様性学は書籍が命という面がありますので。書籍を持っていることが財産となるという状況が今なお変わらない、数少ない分野ですね。
― 書籍と標本のために二重にスペースが必要ということですね。標本の保存可能な期間は?
ヨーロッパには200年以上前の標本もゴロゴロあって、1700年代のものもあります。日本で最も古いのは約200年前の旗本・武蔵石寿作製のもので、東京大学総合研究博物館に収蔵されています。
― 当時の標本は蘭学の知識で?
いえ、日本独自の方法が天保年間にあったんです。
― アジアの他の地域にも標本はあったのでしょうか?
各地域独自の方法はあったのですが、現物はほとんど残っていません。
― 日本は湿気があるので標本も残りにくいのでは?
その通りです。ヨーロッパのほうが低湿低温で残りやすい。日本はそれでもこれだけ残っているのは奇跡的です。
人文学との親和性
― 昆虫学では誰が新種を発見したかというようなことが重要になると思いますが、データや情報の共有はどのような状況でしょう?
データ共有は必要で、新種の情報も含めて、あらゆる分野で情報発信は重要です。最近ではジャーナルもオンラインが多いです。Zoological Recordという、年ごとに命名された新種・新亜種をリスト化した本があり、以前はそれを直接見て確認し、その命名の元になったタイプ標本にアプローチし、さらにその元になった文献を見て比較する必要があった。今はそれがウェブ上でできるようになり、楽になった部分もあります。新種や命名以外の分野でも、発見したことが既知の情報かどうかを知るために、ウェブの情報は欠かせなくなっています。
― 文献についての情報はどこから入手するのでしょうか?
ネットが多いです。OPACやCiNiiも使います。ネットに出ていない情報を文献複写サービスで得ることも多いです。農学部から取り寄せる、あるいは直接行くことも多い。PDFで一部取り寄せられるのはありがたいです。
― 人文系研究者と共同で研究を行う機会もあるのでしょうか?
私の研究分野は半分人文系みたいなものです。歴史を探り当てる性格がある。
― 自然環境だけでなく、社会との関わりが重要になることもあるのでしょうか?
例えばつい最近あったケースです。対馬には上島と下島があり、昔から下島が発展していて、上島は拓けていなかったのですが、ツシマウラボシシジミというチョウは上島にしかおらず、いた記録も上島しかない。ところが、下島で採集されたことがラベル上に記されている明治時代の標本が出てきたんです。そのデータが間違いではないと確かめるためには、当時の上島の様子、たとえば集落の形成や交通手段の発展度合などを知る必要があります。
― そういう事例のフィールドがアジアであれば、人文系のアジア研究者がお役に立てるかもしれないですね?
もちろん日本だけではなく、世界でもこうした事例はあることで、今では使われていない古い地名がどこなのかなどを探ることはよくあります。地名が分からないと分布図上にプロットできません。その地域が専門の人文系研究者なら一瞬で分かることを、我々は何日もかけて苦労して探っているのかもしれないですね。
― 歴史学に近いことを探ることがよくあるのですね。
ほかにもたとえばその土地の昔の気候、情勢などの情報が必要なときがあります。
― そういうときはご自身で文献に当たって調べるのでしょうか?
専門家と組めば一瞬で分かることなのかも知れませんが、どこと組めばよいか分からない。こういうことを知りたいがどこと組めばよい?と聞ける窓口があるとありがたいです。
― 図書館がそういう役割を担えるとよいですね。
文献でつながる、図書にアプローチするだけでなく、それに研究者とのつながりも一緒についてくると、共著で論文を書いたり、お互い良い話なのではないでしょうか。
― 図書館の明るい未来が見えてきた気がします(笑)。それではおすすめ本の紹介をお願いします。
五十嵐邁『アゲハ蝶の白地図』(世界文化社、2008年)です。自伝的な著作で、著者がチョウの調査で訪れた各国・各地の気候や風土、生活が描かれています。
著者は飛行機が落ちても生還した人で、大成建設取締役、信越半導体株式会社社長・会長にもなった企業家でもあり、大型図鑑を何冊も出版して京大の理学博士も取っているチョウの生活史の世界的権威です。トレンディドラマの走りで「旅立ちは愛か」という番組がありましたが、その原作小説『黄色い皇帝』の主人公のモデルになりました。小説では、主人公は「カトマンズアゲハ」を追い求めて死んでしまうのですが、五十嵐博士はテングアゲハの生活史発見に成功して帰ってきます。作家としての才能もあり、絵の才能も天才的です。
(ここで著者による図鑑の絵を拝見)亡くなったとき、図鑑の原図版をスミソニアン博物館、大英自然史博物館が求めたが、遺族は譲らず、これも東京大学総合研究博物館に入っているんですよ。
― 今日はどうもありがとうございました。
(2017年7月、インタビュアー:徳原・成田)