特任研究員 中井勇人
21世紀日本のアカデミアにおいて、外国諸地域の歴史や社会や文化を研究する研究者はふつう、調査でフィールドに中長期的に滞在したり、留学をするなどして現地語を流暢に操ったり、とにかく研究対象の現地社会に密着しているはず(そのようでなければならない)、というのが半ば常識となっている。そのような中で私は、研究対象としている地理空間への滞在経験はわずか数えるほどしかなく、現地に留学したこともなく、当然現地語を流暢に操ったりもできないにもかかわらず、外国地域を扱う歴史学研究者であることを平然と自称している。
なぜなら、私が専門とする現地は、かつて確かに存在したものの、現在はすでに消滅しており、そもそも密着すべき現地社会はもはやなく、話せるようになるべき現地語会話を学ぶことなど不可能であるからだ。このコラムは、なぜ、このように歴史的に消滅した社会を扱う研究が、たとえば中国研究や韓国研究のような現在まで続く地域・社会の研究と対等に並置されるべき研究領域として成立しうるのか、そしてそのような研究領域にどのような現代的価値があるのか、という点を説明するものである。
まず前提として、私は中国研究者でも韓国・朝鮮研究者でもない。中国も韓国・朝鮮も、私にとっては現地ではなく隣接地域であり、中国語も韓国語も現地語ではない(これらの言語の論文は山のようにあるので、読むのは読まなければならないが)。では、私の専門対象は何かといえば、14世紀~17世紀前半までの間の東北アジアのマンチュリア(現在の中国東北部~ロシア沿海地方)に存在していた、ツングース系のジュシェン(女真・女直)とよばれる諸集団を専門としている。
高校世界史でツングース系の「女真・女直」といえば、12世紀の完顔阿骨打による金建国のくだりが知られるかもしれない。だが、ややこしい話で恐縮ながら、私の専門とするジュシェンは、漢文史料ではたしかに「女真・女直」と記録されるものの、より後代にあらわれた別系統の集団を指す(区別するため、ここでは後者をジュシェンと呼ぶ)。

[画像]マンチュリアの山と川。 ただし、20世紀後半以降の近代化(ダム建設、高速道路の開通、近代的な農業開発など)により、地形・景観はジュシェン時代とは少なからず異なっている。(筆者撮影)
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ジュシェンという集団は、文献から判明する限り、およそ14世紀ごろに成立したとみられる。金を建国した女真・女直(ジュルチン)の人びとがマンチュリアから華北に移住し、そしてモンゴルによって金が滅ぼされたのち、より北方から、新たに南下してきた人々であると考えられている。その後約300年間ちかく、彼らは自らの国家や政体を形成せず、自らの文字文化ももたず、マンチュリア南方の山谷に分散割拠し、商業狩猟と定住農耕を生業として暮らしていた。これこそが、私の専門研究の対象とする現地であり、ジュシェンの人びとがくらした時代のマンチュリアこそが私の取り扱う地域である。
16世紀末から17世紀初頭にかけて、世界史教科書にも出てくるヌルハチという人物がジュシェンを統合し、マンジュ国(のちの、いわゆる清)という国家を樹立した。この国家は、各地の村落に分散割拠していた中小集団を国家の中枢部に強制的に徙民・集住させ、八旗と呼ばれる全く新しい社会組織に組み込んだ。1635年、二代目君主ホンタイジは、自分たちの集団名をジュシェンからマンジュ(満洲)と改名させるが、社会の形態としても、このころの彼らの社会はヌルハチ以前のジュシェン時代とは全く別物だった。そして清は1644年に山海関をこえて北京に入城すると、八旗に編入されていたマンジュ人たちをまるまる全員連れて、マンチュリアを完全に離れて北京に移住した。かくして、マンチュリアはジュシェン人の地ではなくなった。
かわりに、18世紀以降、マンチュリアには漢人(中国系の人びと)が大量に移住し、また19世紀以降は朝鮮系の人びとも多く移住することで、そこには全く別の新しい地域(中国東北地方)が形成された。他方、北京に移住したマンジュ人たちは、20世紀初頭まで清の支配階層として君臨するが、辛亥革命以後に漢人との力関係は反転し、漢人社会に飲み込まれて事実上その姿を消した。現在の大陸中国には「満族」という民族籍に区分される「少数民族」が存在するが、これは民族識別政策に基づいて制度的に認定された法的身分であり、実際にマンジュ人の末裔かどうかとは無関係である。もはやマンチュリアにジュシェン人の住まう地域は存在せず、ジュシェン語を話す人々は世界のどこにも存在しない。
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私は、「地域文化研究専攻」という地域研究(エリア=スタディーズ)の亜種を標榜する大学院の専攻から博士号をいただいたわけだが、もし地域研究の中で私を位置づけるならば、歴史的にすでに消滅した地域の研究者、消滅地域研究者ということになるであろう。とはいえ、消滅というのは、なにもムーやアトランティスやヌーメノールのように海中に没したわけではない。また、単に時間が経って過去の存在になったというだけのことでもない。その地域をその地域たらしめるメカニズムとアルゴリズムが変わってしまったのであり、つまり、とあるひとつの世界が消滅してしまった、ということである。
このような対象を研究していることを述べると、だいたい二つの反応が返ってくる。一つ目は、そもそもそのような対象を扱う学術的な研究分野は成立しうるのか。二つ目は、かりに研究分野として成立するとして、そんな消滅した対象を研究して何になるのか、と。まずは一つ目から答えよう。
世界ではじめて、近代的な学問領域としてジュシェン(史)研究が成立することを示したのは、白鳥庫吉(1865~1942)と内藤湖南(1866~1934)が創始した、20世紀初頭の日本の東洋史学である。わけても、東京帝国大学系の、白鳥庫吉の門下であった池内宏(1878~1952)とそのスクール(学派)は、きわめて厳格な史料批判によって、今日でも通用する実証水準の歴史地理考証を達成した。前述の通り、ジュシェン時代にはまだ彼らは独自の文字文献を持たなかった(満洲文字はマンジュ国家形成後に創案される)。ジュシェンの歴史に肉薄するにあたっては、今も昔も、まずは外部史料である中国(明)や朝鮮の漢文史料を使わなければならない。
このような限界を補うべく池内が編みだした研究原理は、次のようなものである。すなわち、互いに独立したA、B、C、D、Eという五つの史料が存在し、その五つの史料を矛盾なく合理的・整合的に説明しうる仮説xが存在するならば、そのxは史料に直接みえなくとも、真理として実証されたものとみなす[1]。これは、断片的な外部史料しかない状況にあって、いたずらに具体的な個性記述を列挙するのではなく、現存する史料的秩序を整合的・構造的に説明することこそが歴史研究者の目的であり骨頂であるという、池内一流の態度であった。
その後、多くの歴史学研究者が池内の研究原理を批判的に乗り越えようとしたが、管見の限り、説得力をもってそれにかわる原理の提示に成功した者はいまだ存在しない(表層的な次元で否定したり揶揄したりする者は枚挙にいとまがないが)。むろん、この原理に基づく池内の研究対象はジュシェン史に限られるものではないが、ともかく、ここにおいてジュシェン研究は、近代学術として独自の分野であることを称するに足るだけの背骨を持った研究分野として確立したのである。
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問題はむしろ、そんなものを研究する意味であろう。国策的な「満鮮」「満蒙」研究として大陸進出の片棒を担いでいた戦前日本のアカデミアにとって、むしろそれは自明であった。だが、2020年代の日本においてはそうではない。歴史的に消滅した社会というのはジュシェンに限らず数多く存在する。なぜジュシェンを研究せねばならないか。思うにその核心は、池内の(研究目的ではなく)研究原理の現代的拡張にある。
繰り返すように、ジュシェン史研究の中核史料は、朝鮮をはじめとする外部勢力の手になる断片的な記録しかない。そしてそれらの史料片を整合的に説明しうる仮説xは、読者諸賢ならお察しのとおり、実際のところ複数存在しうる。同じ程度の合理性・整合性を有するxとx´のいずれをとるべきか。当然、現地に行って現地の人に聞いて確かめることはできない。戦前の学者は主に歴史地理を問題にしたため、山や川を見るために現地に行って解決することもあったであろうが、現代の研究者の抱く視点の多くは、現地で山や川を見るだけでは解決しないことが多い(むろん、いまでも山や川を見ることで解決する場合もあるが)。
私も、ときに山と川を見るために現在のマンチュリアに行くこともあるにはあるが、むしろ自分の専門外のフィールド(ベトナムや韓国など)に足を伸ばした経験・期間の方が多く、長い。それは、もっとも優れたxを生み出すためには、人類のあらゆる時代・地域の社会のあり方を、自らの参照体系に叩きこまなければならないからである。断片的な外部記録しかないジュシェンについての研究は、対象史料に没入するだけでは何もわからない。さまざまなxを互いに比べ、参照し、どれが最も整合的に「はまる」のかを検討しなければならない。むろん、単なる類似例のあてはめなどはただちに棄却される。恐竜の全身骨格や土器の完成形の復元のごとく、もっともありうる、もっともしっくりくる再構成の形を、ありとあらゆる他事例の様々な要素を取捨選択しながら、慎重かつ大胆に吟味し、仮設的に提示し続けていく作業にほかならない。
これはひいては、みずから主体的に語ることなく、外部的・断片的な痕跡だけを残してきた人々の存在をどのように理解し、位置づけるか、という現代的仮題を扱う研究領域でもある。ジュシェン研究は、失われた、ないし不可視化された人々の世界を、無視でもなく代弁でもない形式で可視化する。そして、そのような復元と再構成のための視点と方法を社会に提供する。ここにおいてジュシェン研究は、中国研究や韓国研究と対等に並置されるべき学術的方法と社会的価値をそなえた研究領域として立ち現れるのである。
[1] このような池内の研究原理については、『東方学』誌上の座談会「先学を語る」において池内を取り上げた際に、門下であった旗田巍(1908~1994)が語っている。(「座談会「先学を語る」-池内宏博士」『東方学』48, 1974, p. 122)

[画像]朝鮮『成宗実録』巻五二、成宗六年(1475)二月(五台山本、東京大学総合図書館旧蔵・ソウル大学校奎章閣韓国学研究院現蔵)
ジュシェン研究は、主にこのような漢文による外部編纂史料の断片的記事の活用によってはじめて可能となる。画像の五台山本は、日韓併合後に東京帝国大学にもたらされ、池内のジュシェン研究はこれによって実現した。しかし、その後の関東大震災で大半が失われたが、一部は池内が借り出しており、現在まで残った。これらは、2006年に韓国・ソウル大学校に移管されたが、東京大学アーカイブズポータルの朝鮮王朝実録画像データベースにおいてiiif形式でデジタル公開されている。
参照:東京大学総合図書館旧蔵朝鮮王朝実録画像データベース https://da.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/portal/collection/jitsuroku
