Nguyen Anh Tuan、田中あき特任研究員
田中:50年前の4月30日、サイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結しました。私のベトナム系アメリカ人の友人、Nguyen Anh Tuanさんは、当時日本で学び、生活していました。その頃を振り返って何を想われるのでしょうか。私、田中より、当時の様子をコラムとして執筆していただけないかTuanさんにお願いしたところ、以下の文章を英語で寄せてくださいました。
Tuan : 日本では、桜の咲く4月、学校や行政、会社でも新しい年度がはじまります。春の訪れとともにすべてが新しくはじまり、日本文化の特徴である和の感覚がもたらされます。
はるか昔、47年前のことを振り返ると、次のような情景が思い浮かんできます。東京大学の本郷キャンパスで赤門をくぐって研究生生活を始めた日のこと。感動的な瞬間でした。三四郎池では桜が咲き誇り、フレッシュな雰囲気に包まれていました。また、1970年代の学生運動で有名だった安田講堂を見る機会もありました。当時はすべてが静かだったものです。
私が所属した工学部には部局の図書室がありましたが、時折総合図書館を訪れては、象徴的な赤い階段をのぼっていました。まるでレッドカーペットの上に立っているかのような気持ちになったものです。数か月後、アメリカへ行くビザを取得。東大で過ごした時間は僅かでしたが、その経験は私の心に深く刻まれました。短いながらも、とても印象深いものでした。
川端康成の小説『伊豆の踊子』に描かれた経験に似ているように思います。伊豆を旅した時間はつかの間であっても、青年にとって生涯忘れえぬ旅だったのですから。
東京大学総合図書館大階段 ©東京大学
田中:さすが「詩の国」ベトナム出身のTuanさんだけあって、とても詩的な文章ですね。工学がご専門である一方、Tuanさんは日本の歴史や日本の文学に、とても造詣が深い方です。とりわけ、Tuanさんが伊豆半島を訪れ、『伊豆の踊子』ゆかりの場所を訪れていたことをうかがっていたので、日本の文学が、日本人以上にTuanさんの身に染み込んでいることがよく分かりました。
南ベトナム出身の留学生だったTuanさんは、1975年4月30日以後、祖国を喪失し、同時に国籍も失ったまま、日本に滞在し続けるしかない状況にありました。そうした困難な時期の、Tuanさんの心境を教えていただけますでしょうか?
Tuan : 1978年の夏、私はアメリカへ渡るビザを取得し、家族と再会しました(田中補足:日本に居続けたい想いはとても強かったものの、日本政府がなかなか在住許可を出してくれない状況にあり、アメリカ国籍を持つ姉を頼って渡米した経緯がある)。家族と再び一緒にいられることを喜ぶ一方で、学び、働き、青春を過ごした日本を離れなければならない悲しみ。両者が入り混じった、複雑な気持ちでした。日本にいる間、さまざまに支えてくださった先生方や友人との思い出は今でも大切にしています。私は日本を心から愛し、第二の故郷だと考えています。
南ベトナムの陥落は、私にとって夢が破れることと同じでした。日本で培った知識と経験で祖国の再建に貢献したいと思っていたからです。ですが、アメリカに居を移すことで新たな扉が開いたのです。
私は日本に心から感謝をしています。この地で成長し、学び、働き、たくさんの忘れがたい思い出がある場所だからです。同じように、アメリカにも感謝しています。私をあたたかく迎え入れ、「アメリカンドリーム」を追求する機会を与えてくれました。これらの経験が、今日の私を形作っています。
田中:サイゴン陥落前後のTuanさんの日本での生活の様子はどのようなものでしたか?
『伊豆の踊子』の舞台、河津七滝を訪れて
Tuan :(ベトナムで)日本語を一年間学んだあと、私は姫路工業大学に入学しました。ですが、数か月後、「東大紛争」のために大学全体が一時的に閉鎖。何人かの先生が、私の下宿を訪れ、簡単な講義や宿題を出してくれたものです。その中の一人、南カリフォルニア大学(USC)で博士号を取得した亀岡教授はこうおっしゃっていました。「あなたは勉強するためにここに来たのに、学生運動のせいで学校へ行けなくなってしまった。私は教室で講義をすることもできないし、あなたも教室へ行くことができない」。
私の指導教授は、ウィスコンシン大学で博士号を取得した若くてエネルギッシュな方でした。彼は長野出身で、時折私を自宅に招いては、奥様と一緒に「信州そば」でもてなしてくださいました。その際、当時スーパーでは手に入りづらかった「信州みそ」もいただきました。
香川先生は、他の南ベトナムの学生たちと一緒に日本文化を体験させてくれました。奈良の東大寺で大晦日を祝ったり、三十三間堂、平安神宮、姫路城を訪れたり、播州の歴史を学んだり…。関口先生もお正月におせち料理をご馳走してくださったり、茶道を紹介してくださったりしました。彼は兵庫県たつの市の出身で、「赤とんぼ」の作詞家・三木露風、生誕の地を訪れる機会もくださいました。
姫路工業大学を卒業後、山梨大学大学院の修士課程に入学しました。キャンパスからは富士山と甲府市を囲むようにそびえる南アルプスが見えました。冬の山頂の雪は息をのむほど美しかったです。新しい友人たちはとても歓迎してくれましたし、私と「家族」のように接してくれてとてもうれしかったです。
山梨大学大学院を修了してから、退職した教授の一人が、故郷の熊本に招待してくださいました。サラリーマンになる前に、彼に会うために九州を訪れました。彼の家は水前寺公園から徒歩10分以内の距離にありました。活火山の阿蘇山や熊本城にも連れて行ってくださいました。
東京に戻ると、私は新宿住友ビルにある住友系列の会社で2年間働きました。1978年の春に辞職し、東大で研究生として学ぶために大学に戻りました。同年8月中旬にアメリカに渡ったので、東大で過ごした時間はつかの間でした。振り返ると、それは素晴らしい夢のようでした。日本で充実した青春時代を送り、いまだに教授や友人が恋しいです。
日本ロータリークラブの米山記念奨学金についても言及しなければなりません。その援助と経済的な支援がなければ、私は学問を修めることができなかったかもしれません。姫路ロータリークラブと甲府北ロータリークラブには特に助けてもらいました。甲府北ロータリークラブは、米山記念奨学金が終了した後も特別に経済的な支援を提供してくださいました。山梨大学の学長で甲府北ロータリークラブのメンバーであるフルヤ先生、クラブのシニアメンバーであるカガミさん、山梨大学の教授でクラブのメンバーでもある北御門先生に深く感謝しています。
2年前、甲府北ロータリークラブを再訪する機会がありましたが、当時のメンバー全員が亡くなっていることを知り、悲しくなりました。彼らからの援助をはじめ日本への感謝の気持ちは決して忘れません。今度は、私ができる限りの恩返しをしようと思っています。
東北地方太平洋沖地震が発生したとき、私はシリコンバレーのSanDiskという会社で働いていました。私は同僚に被災地支援活動への寄付を呼びかけました。会社はその呼びかけを支持し、さらに数十万ドルを追加寄付してくれました。記憶が正しければ、総寄付額は約100万ドル近くで、アメリカ赤十字を通じて東北地方太平洋沖地震の被災者に送られました。同様に、能登半島地震が発生した際、私たち(1975年以前に日本に留学したベトナム人学生)は1,908,000円を集め、ロータリークラブ第2610地区(石川県)に寄付しました。
❤️ Japan
来日中のNguyen Anh Tuanさんと
田中:とても貴重なお話をありがとうございました。
Tuanさんのお話は楽しく美しい思い出が大半を占めていますが、それと同じくらい悲しく辛い経験があったことを、わたしたちは、学びを重ねることで、積極的に読み取っていく必要があると思います。このような記憶を文章として(あるいは何らかのかたちで)アーカイヴに遺していくことも、図書館で働く人間の業務のひとつであり、使命でもあります。今後も、こうした埋もれた記憶を掘り起こしていければいいなと思います。
(和訳:菅崎千秋 U-PARL学術専門職員)
30.Apr.2025