インドで蜂と水争い
この夏、本部門の研究員の家のベランダに蜂の巣ができ、すわスズメバチかと緊張したところアシナガバチとわかり、とりあえず少しほっとしつつ、対策に励んだそうです。以下はその話を聞いて思い出した、デリー大学留学時代の四方山話です。余計な記憶がいろいろ付随するため、東大の宇宙物理学の先生、須藤靖教授の名エッセイ「注文の多い雑文」シリーズに勝手にならって注多めにします(*1)。
インド留学にあたり、リサーチビザ取得に時間がかかった私は、半端な時期に渡航したため、なかなか大学寮に入れませんでした。それで居場所を求めて長くさまようことになるのですが、紆余曲折と交渉の末に大学のゲストハウスにおいてもらえることとなり、寮に入れるまでしばらくそこで暮らした時期がありました。そこで私もベランダで蜂と争ったことを思い出しました。
その部屋にAC(冷房)はなく、夏は大変暑くなりました。デリーでは、3月頃の大きな祭、ホーリーを境に気温がぐいぐい上がり、4月には40℃を越え、最も暑い5月には50℃に近づきます(*2)。こうなると、不慣れな者はろくな活動はできなくなり、一日を乗り切ることで精一杯となります。
この時期、non ACの部屋での助けは、まず何より、天井につくりつけられた大きな扇風機、パンカーです(*3)。これは大学寮や格安ホテルでもほぼついているありがたい存在で、壊れてさえいなければとにかく強力な風を送ってくれます。本当に暑い時期には熱い空気をかき回し送り込んでくれるばかりとなり愛憎半ばするのですが、それでも床に水をまいたり自分が濡れたりすればまた新たな効果が得られます(*4)。つまり水+風=気化熱の力ですが、ゲストハウスにはパンカーの他にもう一つ、この仕組みを利用したこのような機械がありました。
A traditional air cooler in North India by User:Utkarshsingh.1992, Wikimedia Commons
デリーではこれをウォータークーラーと呼んでいました。ウォーターをクールするのではなく、ウォーターでクールする機械です。日本で言う冷風扇ですが、ずっとごついつくりで、多くの場合、室外に置いて窓を通して部屋に風が入るように作り付けます。詳しくはWikipediaなどの説明をご覧いただければと思いますが、立方体の一側面に大きな扇風機、残りの面に藁状のものが仕込まれていて、ここに水を吸わせて扇風機を回す仕組みにより、気化熱で冷えた風を発生させます。
デリーの酷暑期は暑くてカラカラで蒸発が早いため(*5)、これがなかなかの効果をもたらします。しかしそれだけに、水を入れても入れてもすぐなくなります。水道がそばになければ(大抵はなく、その部屋のベランダにもなかったので)大きなバケツに水を汲んでベランダに運び補充するという作業を短いスパンで繰り返すことになります。疲れるし暑いし、しかしやらねばまた暑いしで、何かネガティブな永久機関に組み込まれたような状態になります。その水補給作業の時、いつも蜂がやってきて威嚇するのです。どうやら彼らにとってウォータークーラーはこの季節の貴重な水場であったようです。その水を供給しているのは私なのですが理解は得られず、いつも数匹にたかられるのでした。比較的小さいアシナガバチのようなものだったのでひどい危険を感じることはありませんでしたが、刺されれば痛く(*6)、といって水補給はやめられず、水をめぐって蜂と争いながら酷暑の時期を過ごしたのでした。
なお、私は蜂と争いましたが、友人がいた別の大学の女子寮では、人間同士の水争いがあったそうです。夏は停電(パワーカット)が頻発して、するとパンカーが使えなくなり大変つらいのですが、より深刻な問題は、ポンプが動かなくなるため水がすぐにとまってしまうということです。そのため常に大きなバケツに水をくみおいておく必要があるのですが、その寮ではその水をいつの間にか奪われることがたびたびあり、「人がなぜ水をめぐって血みどろの争いをしてきたのかわかった」とよく言っていました。私は蜂が相手でよかったです。
*1 東京大学出版会のPR誌『UP』に不定期連載されているエッセイシリーズ。この9月号で31本目とのこと。『UP』掲載エッセイを含むエッセイ集『人生一般ニ相対論』『三日月とクロワッサン』『宇宙人の見る地球』が刊行されている。
*2 ただし最高気温が48℃を越えることはまずない。48℃を越えると工場を操業停止しなくてはならないため公式には決してこの壁を越えないのだとしばしば言われるが真相は不明である。なお、ある研究会で、カイロでは同じ事情で決して38℃を越えることがないと言われているとの話を聞き驚いていたところ、このたび本部門で、中国にも類似の説があるとの情報を得た。さらに多くの情報を求めるものである。
*3 paṅkhā、英語化して “punkah” などと綴られることが多い。もとは椰子などでできた扇子を示すが、後に天井につくりつけた薄い板や幕を人力で動かして風を発生させる仕組みを指すようになり、そこから現在のつり下げ扇風機に至っている。参考:“PUNKAH, s. Hind. paṅkhā”, Hobson-Jobson: A glossary of Colloquial Anglo-Indian Words and Phrases, and of Kindred Terms, Etymological, Historical, Geographical and Discursive, from the Digital Dictionaries of South Asia, http://dsalsrv02.uchicago.edu/cgi-bin/philologic/getobject.pl?p.1:376.hobson.
植民地期のパンカー例
An English Family at Table, under a Punkhah, or Fan, Kept in Motion by a Khelassy
手持ちの「ハンドパンカー」
An European Lady, Attended by a Servant Using a Hand Punkah, or Fan
*4 ただしこれもウォータークーラー同様効果の継続時間は短く、また自ら濡れる方法は激しく疲労する。
*5 そのため気温の割には不快指数は低いが、簡単に脱水状態にいたるので危険である。なお、雨期がくると気温は下がるが湿度が上がるのでそれはそれでつらい。また、気化熱を利用するウォータークーラーの効果は雨期には激減する。
*6 初めて蜂に刺された時、ゲストハウスの事務所の人たちに薬がないか尋ねたところ、蜂に刺されたらすぐに金属を押しつけるとよいと教えられた。聞いたことのない対処法で効果もよくわからなかったが、調べてみると、1ペニー銅貨を押しつけると良いとの説がアメリカのネット上に存在し真偽をめぐって議論がなされていることが確認された。この説の根拠や広がり具合についてさらなる情報を期待するものである。
U-PARL副部門長:冨澤かな