「学会デビュー戦」といえば、研究者としてやっとよちよち歩きを始めたくらいの大学院生が、学界の権威が居並ぶ階段教室で自身の研究をプレゼンし、時に温かい拍手と激励を、そして時にあまりに鋭い質問を浴びては頭が真っ白になる――多くの研究者ににとってそんな戦いであったのではなかろうか。かく言う筆者も、かつて日本中国学会という大きな学会で、そのようなデビュー戦を経験したことがある。発表が時間内に収まるよう何度も練習したり、想定される質問に対する回答を考えたり、しかしいくら準備を重ねても、本番まで不安と緊張が消えることはなく……
そんなデビュー戦から何年経ったろうか、今年も学会の季節がやってきた。日本中国学会は、中国文学・語学、中国哲学・思想、日本漢文の各分野を広くカバーし、1700名の会員を擁する巨大学会である。去る10月10日~11日には、恒例の大会が國學院大學渋谷キャンパスにて開催され、筆者は多くの若い研究者たちのデビュー戦を「観戦」し、たくさんの知的刺激をもらうことができた。
ところで、そのような会場の片隅で、時を同じくして「もうひとつの」デビュー戦が繰りひろげられていたことは、大会に参加した研究者たちにもあまり知られていないかもしれない。それは、今回大会において初めて設置された託児室である。
じつは、学会託児の計画は同学会内で数年前から持ち上がっており、全会員へのアンケート調査などを経てやっと実現したものである。事前に送付された大会案内には、託児室開設のお知らせと申込要領が掲載され、かくして筆者の一人娘は、わずか3歳にして学会デビューすることになったのである。
大会当日、会場の一角には会議室から大変身した託児室が出現し、國學院大學公式マスコット「こくぴょん」が子どもたちを出迎えてくれていた。しかしいざ子どもを預けて去るとなると、うちの子は大丈夫だろうか?トイレは大丈夫だろうか?癇癪を起こさないだろうか?弁当をちゃんと食べてくれるだろうか?――いくつもの不安が筆者の胸中に去来した。しかしアジア研究の未来のため、父は行かねばならぬ!娘よがんばってくれ!
結果的には、(株)ポピンズさんの行き届いたサービスにより、娘は2日間いたって機嫌よく楽しく過ごすことができた。家でのわがままぶりが嘘のようである。
さてこのデビュー戦、わが子にとっても大きな出来事ではあったが、日本中国学会が学会託児を実現したことは、男女共同参画、若手研究者支援という命題からしても特筆すべきことである。研究者が家庭における育児の主たる担当者である場合、通常休日に開催される学会に参加することは容易でない。配偶者や近親者に代打を期待しがたいケースは少なくないだろうし、一時保育は金銭的負担を伴う。そこで学会が託児サービスを割安な料金で提供すれば、日ごろ育児を負担している研究者も学会に参加しやすくなる。研究者の配偶者が育児の主たる担当者でもある場合も、たまの休日に一銭も家計を利さない学会に参加することは、配偶者の理解を得がたいところがある。誰とは言わないが、「学会って仕事じゃないんでしょ?一日中家空けて、どうせまた『安かったから』とかいってヘンな分厚い本買ってくるんでしょ!どうしても行くなら子ども連れていってよ!」と冷酷な拒否を食らいつづけ、学会から足が遠のいてしまう若手研究者は実在する。このような若手研究者にとっても、学会託児は福音になりうるだろう。
国内で学会託児を実施している学会は2000年代以降とみに増えており、日本中国学会は、その規模からしてもあまりにも遅い「託児デビュー」を果たしたといえよう。そして気になるのがその利用状況であるが、今回の大会では、事前申込のあった参加者308名に対して、託児利用は3件であった。今回は東京での開催とあって、関東地区在住の会員の多さ、託児サービス発注の容易さからしても、より多い利用実績の獲得に有利なケースであったろう。数値に対する評価は慎重になされねばならないが、次年度以降の大会における託児サービスの継続実施が誰からも約束されていない現状にあって、3件という数字は積極的材料になりうるものか、甚だ不安である。
これは筆者の憶測にすぎないが、日ごろ育児を負担している研究者は、平素の経常的研究活動の継続さえ困難であり、「ぜんぜん研究できてないのに、たまに学会だけ聞きにいってもね……」と考えがちなのではなかろうか。しかし、ふだん眠らせてしまっている自己の研究に対する情熱を再びたぎらせる目的で学会を利用してみてもよいのではないか。もちろん、経常的研究活動に対する後援体制の構築が立ち後れていることが問題の根本としてあることは言うまでもなく、1年365日のうち学会開催中の2日だけ支援しても焼け石に水といえばそうなのだが、学界全体をリードする学術組織が、男女共同参画、若手研究者支援のためにできるかぎり最善の手当てを提供してゆくことは、象徴的意義を有するし、最低限果たすべき社会的責任でもある。
今回の託児室の利用料は、市中の一時保育の相場からすれば割安であったとはいえ、筆者の家庭にあってはやはり議論を必要とする支出額であった。日本中国学会には、託児サービスの存続を不動の方針としたうえで、さらに利用料の逓減を検討していただきたい。また同学会会員の皆様には、託児サービスへのより広い理解と支援を求めたい。
U-PARL特任研究員 成田健太郎