特任研究員 須永恵美子
旅にでたい。
これまでだったら、「またパキスタンで調査か…乗り継ぎは時間がかかるし、貴重品の管理は面倒だし、面会のアポはすっぽかされるし…」と荷造りが捗らないことも多かった。しかし、行きたくても行けない日々が続くと、空港の殺風景な待合ロビーや、市場の雑踏が無性に懐かしくなってくる。そういうときは、旅先のガイドブックを眺めて空想に浸ることにしている。
日本語で手に入る海外の旅行ガイドとしては、『地球の歩き方』シリーズが筆頭であろう。世界的には、イギリス発のフットプリントや、オーストラリアで創刊されたロンリープラネット、フランスのミシュランなどが有名どころとして挙げられる。ガイドブックにまつわる個人的な思い出として、バックパッカー向けゲストハウスに置かれたガイドブックからメモをとって街歩きをしたこともあれば、帰路につく観光客に使い込まれたガイドブックをもらったこともある。
イブン・バットゥータや伊能忠敬の例を挙げるまでもなく、古くから人は各地を旅した記録を残してきた。こうした旅行記や探検記、紀行書からも有益な旅先の情報を得ることができるし、世代を超えて親しまれる文芸ジャンルの一つである。ただし、旅行記に載る情報の多くは著者の私的な経験に依拠している。ガイドブックが旅行記と異なるのは、書き手の主観の排除と、網羅的な情報にあろう。現在私たちが手に取る『地球の歩き方』や『るるぶ』といった旅行情報ガイドブックの原型は、19世紀初頭に刊行されたドイツのベデガー社と、イギリスのマレー社に遡る。
インドについての最初期のガイドブックとして、1836年創業のマレー社が『マレーのインド旅行者ハンドブック A Handbook for Travellers in India』(1859年)を出版している。この上下巻本のガイドブックには、ボンベイ(現在のムンバイ)とマドラスを中心に、細かな情報や地図が英語でびっしりと掲載されている。例えば、イギリスを出発する前に読む案内、陸路や航路などの経路、現地の歴史や観光名所、旅の予算、鉄道路線、現地語の単語帳など、かなり実用的な内容である。その後も版を重ねる中で対象地域を広げ、1900年頃からは、ビルマやセイロンが含まれるようになった。1949年版から『マレーのインド・パキスタン・ビルマ・セイロン旅行者ハンドブック A Handbook for Travellers in India and Pakistan, Burma and Ceylon』という形になった。ページ数は多くて分厚いものの、持ち運びに適したコンパクトな大きさであったことや、数年おきに改訂版を発行していた点も、個人の旅行記との違いであろう。マレーのガイドブックを読むと、19世紀のイギリス人が見ていたインドが垣間見えて面白い。
本学に所蔵されているマレー社のガイドブックは30冊以上あり、例えば以下のような行き先が並ぶ。
ロシア、ポーランド、フィンランド(1868年)
ローマ(1871年)
パリ(1872年)
スウェーデン(1877年)
ノルウェー(1880年)
日本(1884年)
コンスタンティノープル(1893年)
エジプト(1900年)
インド、ビルマ、セイロン(1901年)
マレー社のガイドブック・シリーズでは日本編も出版されている。ちょうど本学にある1884年版が『明治日本旅行案内』(上中下巻、1996年、平凡社)として全文翻訳されている。イギリスの外交官で日本通のアーネスト・サトウが、地理や文化、歴史、美術などの造詣を惜しみなく詰め込んでいる。
なかなか気軽に旅行ができない昨今だからこそ、本を開いて時空を超えた旅にでるのはいかがだろうか。
参考文献:
大橋昭一・橋本和也・遠藤英樹・神田孝治編 2014『観光学ガイドブック: 新しい知的領野への旅立ち』ナカニシヤ出版
白坂蕃・稲垣勉・小沢健市・古賀学・山下晋司編 2019『観光の事典』朝倉書店
December 21, 2021