コンテンツへスキップ

東京大学附属図書館アジア研究図書館
上廣倫理財団寄付研究部門
Uehiro Project for the Asian Research Library

COLUMN

積読の功

特任研究員 荒木達雄

 

(図1) 『水滸伝全本』封面(扉に相当する部分)

 U-PARLでは「水滸伝コレクション」という、中国明清時代に刊行された通俗小説『水滸伝』の全ページの画像をWeb上で閲覧できるコンテンツを作成しています(https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/asia/suiko?sort_by=uparl:identifierOfTheData&sort_order=asc)。東京大学には様々な種類の『水滸伝』が収蔵されているので、これらをインターネット上で簡単に見比べられるようにしようという試みです。 

 そのなかに『水滸伝全本』(総合図書館蔵所蔵)という本があります。この1年、私はこの本の調査を進めています。実はまだ当初の目標の半分もすすんでいないのですが、終わるまで待っているときりがないので、コラムという形でちょっとご紹介させていただこうと思った次第です。この本はすでに全ページの画像をインターネット公開していますのでhttps://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/asia/item?search=E46386&sort_by=uparl%3AidentifierOfTheData&sort_order=asc)、御用とお急ぎでないかたは拙文と実際の画像を見比べながら、「おい、荒木、それは違うんじゃないか」というご批判とともにご覧いただければと思います。  

 さて、この『水滸伝全本』三十巻は様々ある『水滸伝』のテキスト系統のなかでも現存例の少ない珍しいものなのですが、それについては既出の論考(氏岡真士「三十巻本『水滸傳』について」『日本中國學會報』第63集、2011年、pp.95-109など)に譲り、今回はこの本のもうひとつの特徴である書入れを見ていこうと思います。 

  この本には表紙、見返し、欄外、行間といたるところにかつてこの本を読んだ日本人の手によるとおぼしき書入れがあります。この本が中国で印刷されたのは清朝順治年間(1644-1661年)以降であろうと私は考えているので、日本に渡ったのは早くても17世紀後半ということになります。東京帝国大学図書館に入ったのは明治33年(1900年)なので、書き入れはその間、江戸時代中期から明治中期にかけてのものであろうと思われます。 

(図2) 『水滸伝全本』巻一 行間と眉欄(上方の欄外)に書入れが見える

  これらの書入れは一時期に書きつけられたものではなく、私の初歩的な見立てでは少なくとも4つの時期に分かれているようです。第四段階のものは性質が前三段階と異なるだけでなく、ペン書きのようにも見えるので、明治に入ってからのものではないかと思います。前三段階は毛筆書き、第一段階と第二段階とは筆跡、筆画の太さ、墨の濃淡、用語等、比較的わかりやすい違いがあるので、少なくとも同時期のものではないと言えます(人物まで異なるかどうかはまだ断言できません)。第三段階は朱の毛筆書き。筆跡も内容も第二段階と関係が深いので、近い時期に同じ人物が入れたものと考えています。もしかすると順序も逆かもしれません。

  今回の拙稿ではその第一段階の、さらにそのなかの一部に絞って見ていきます。

  第一段階の書入れの種類はさまざまで、「字の読み方」、「単語や文の意味」、「他の『水滸伝』の文章の書き写し」、「さまざまな記号」などがあります。この「さまざまな記号」が、どんな風に文章を読み進めて行ったのかという思考の足跡を反映していて、実におもしろいのです。紙幅の問題もありますので(いや、ここまででもう相当長い)、わかりやすい例を数点あげるにとどめておきます。

(図3) 巻四
 

 巻四の本文に「喚喒做操刀鬼」という6文字があります(図3)。このはじめの2字の右側に〇印があり、6字全体の左側には×印が附されています。そして上方の欄外には「喒俺同我」と書きつけられています。「喒」も「俺」も「我」と同じ意味(一人称)だよ、という意味で、よくわかるメモなのですが、〇×印が妙に複雑なのは解せません。「喒」の意味を書いておくのだからそこにだけ〇なり×なりをつけておけばよいのではないかと思ってしまいます。そういえば、ここには「喒」しか出てこないのにメモには「俺」まで出てくるのも不思議と言えば不思議です。

(図4) 巻四

  そう思ってページをめくると、また×印が目に入ります。こんどは「呌俺做花和尚」6文字の右側です(図4)

 これでぼんやりと事態が見えてきました。
 印を入れながらこの本を読んでいた人はまず、「喚喒做操刀鬼」という文句につきあたります。「喚喒」の2字がどういう意味なのかよくわからなかったのでペンディングとし、〇印をつけておきました。するとほどなく、「呌俺做花和尚」の6字に遭遇します。 

 喚喒做操刀鬼
 呌俺做花和尚 

  この二句はどちらも「私を××と呼んでいる」という意味で、そっくり同じ構造をしています。「操刀鬼」「花和尚」はどちらもあだ名です。 

 文脈からこの二句はともに作中人物が、「人々は自分をこんなあだ名で呼んでいる」と発言していることがわかったのでしょう、「この二句は同じ構造で同じ意味だ」と両方に×印をつけます。ひとつめのほうは右側にすでに〇印をつけているので、左側につけることになりました。同じ構造で同じ意味なのだから、同じ位置にある「喒」と「俺」は同じ意味に違いないと、「喒俺同我」と結論づけた…。おそらくこういう順序なのではないかと思います。こう考えると「喚喒做操刀鬼」の上方欄外に、「俺」まで書いた理由が説明できるからです。
 これは…なんというか、既視感があります。そう、外国語を勉強しはじめて1年か2年か経過したあたりで、そろそろ「外国語勉強用」の教科書を離れて、ネイティブが実際に書いて読んでいる小説やら随筆やら新聞記事やらを読んでみましょうか…というあの時期に私たちもよくやったことです。毎ページのようにわからない単語や表現に当たる。一応辞書を調べてなんとなくわかった気にはなるけれどもすっきりしない。でも読み進めているうちに文脈やら似たような表現やらのおかげでだんだんと意味が見えてくる…。この一例だけではあるいは納得していただけないかもしれませんが、この本のあちこちに書き入れられた印を見るにつけ、読み進めながら印をつけ、またページを繰って戻って読み直し…という光景が想像されるのです。なんだか親近感が湧いてきますね。 

  上に、「一応辞書を調べて…」云々と書きましたが、これは現代の私たちの話(いまの学生さんはまずインターネット検索でしょうか)。この書入れをした人物はおそらく、きちんとした辞書を持っていません。18世紀半ばから『水滸伝』に現れる単語の解説書や、中国の通俗小説に現れる単語や文型をまとめた参考書などが作られるようになりますが、この本の書入れの文言はこれらの書物の記述とほとんど一致しません。 

  解説書をきちんと理解して自分の言い方に直しただけじゃないの?……文言が一致しないだけならばそのようにも考えられます。 

 ただ、この書入れ、間違いも散見されるのです…。

(図5) 巻一

 「攅線𦞂膊 メリヤスノゼニ入」とあります(図5)
 やや勇み足の解釈です。別に小銭専用、財布、がま口の類ではありません。 

(図6) 巻七

 竿共通 ツヽハリ棒なり」と書いています(図6)。「」は「叉」とすべきところですが、このふたつの字形は中国で印刷された時点で混乱していることも少なくないので、そこまで追及するのはやめておきます。ともかく、本文に見える「叉竿」は「つっぱり棒」ではありません。 

 別にあやまりをあげつらって書入れ者の能力を云々しようというのではありません。むしろ、その反対です。
  「攅線𦞂膊」は、1757年刊行の陶冕(陶山南濤)『忠義水滸傳解』で「攢線ハ網帯ノ如シ𦞂膊ハウチガヘ袋ノ如シ帯ニモナリ物ヲ入テ腰ニマクナリ」と説明されている通り、幅の広い布を折りたたんで帯状にして腰に巻きつけるのでそこに小物を入れることもできるものです。ここに小銭を入れる描写を読んだことがある人ならば「ゼニ入」と解釈する可能性は十分にあります。
 第二の例ですが、家の戸口にかかっている「簾」を下ろそうとして「叉竿」を手にとるというところで出てきます。つまり、字形をしている、物干し竿を高いところにかけるときにつかうあの棒(正式名称はなんというのでしょうか)のようなものを称する語です。ただ、夕方に家の戸口を…という場面ですから、戸締り用の「つっぱり棒」を連想することもあるだろうと理解できます。
 つまり、この書入れをした人は、先の文法構造による語義の推測と同様、単語の見た目を参考にしつつ、小説のシーンを理解し、文脈を踏まえて意味を考えることのできる人であったのではないかと思われるのです。この力をどうやってつけたのか。辞書や参考書はおそらく手元になかったと思われますが、どうやら『水滸伝』以外の中国通俗小説を読んでいたであろうという形跡は見受けられます。仮にそれらの本に語釈などがつけられていたとしても、基本的には何度も繰り返しテキストを読むことにより読解力を高めていったのではないでしょうか。現代の人々も……否、主語が大きすぎますね、私も見習うべき根気強さです。 

 さて、この人物、なぜそんな気力のいる作業をしていたのでしょうか。ひとつにはもちろん物語の内容を理解したいということがあるでしょう。書き入れのうち、「他の『水滸伝』の文章の書き写し」は、主にこの本では省略されてしまった部分を補う形になっていて、『水滸伝』のエピソードをできる限りたくさん知ろうとしていたことがうかがえます。

 ※同じ物語なのにテキストの異なる本を集め、それぞれの関係を明らかにしたり、大元となる文章の復元を試みたりする研究手法もありますが、この本の書入れはほぼ特定の一種の本の文章しか書き写されておらず、その引用も不足している文を完全に補うものではないので、研究的な目的の書き写しではないと私は考えています。

 そしてもうひとつは、これはかなり個人的な推測によるのですが、「新しい中国語」を知りたかったからではないでしょうか。 

 ご承知の通り、日本人と中国語とのつきあいの歴史は非常に長いものです。中国語は、日本語が日本語のための表記方法を獲得する以前に日本に入ってきました。この時点で中国語の書記方法はすでに安定していましたから、日本でも記録を残す、文書をつくるための書記言語として活躍することとなりました。長い間、日本における権威ある書記言語は中国語であり、社会の上層の、教養ある人々はその知識(読み書きの力)を有していました(…というより、その知識が「教養」であったと言えましょうか)。細かいところを省略して誤解を恐れずに言えば、これがいわゆる「漢文」ということになります。 

  これに対し、『水滸伝』のような通俗小説に使われていたのは、同時代の口頭言語を反映させる形で整備されつつあった新しい中国語の書記言語「白話」でした。「18世紀半ばから『水滸伝』に現れる単語の解説書や、中国の通俗小説に現れる単語や文型をまとめた書物などが作られるようにな」ったのも、その新しい中国語の研究、学習が盛んになってきたことと深く関わります。 

  巻八にこんな書入れがあります。 

(図7) 巻八

 「断配孟州至十字坡怎生遇張青孫二娘到孟州怎地會施恩怎地打折了蔣門神如何殺張都監云〃」 (図7)

 この本の本文では「自分のこれまでのことを詳しく話しました」と省略されているところを、ほかの本から補ったものです。この傍線がなにを意味するか、それはこの冊の見返しでわかります。 

(図8)第四冊(巻八を収める冊)見返し

 「怎生 怎地 如何 同用」 (図8)

 「怎生」「怎地」「如何」は同じ意味だよ、というメモです。ここにはほかにも「什麼 甚麼 如何 同用」「如何奈何 怎地奈何」など、異形同義の語がメモされています。 

 これまた大雑把にくくりますが、「怎生」「怎地」「什麼」「甚麼」は白話で常用される語、対して「如何」は漢文でよく見かける、従来の教養ある日本の知識人におなじみの語です。
 この書入れ者は、漢文の基礎のもと、新たな文体で書かれた新たなジャンルの作品の読解に熱心に取り組んでいたのではないか。わからないところにはまめに印を入れ、わかったことをメモし、また次の読解に生かす……そんな過去の人々の努力のあとを追いかけ思いを致すことができるのも、古い書物を調査する際の味わいのひとつと言えましょう。 

 なお、「なんだこりゃ、タイトルと文章が合ってないじゃないか」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。これは、東京大学に所蔵される別の『水滸伝』に添えられていた旧所蔵者のメモから拝借したものです。書中に大量の書入れがあることを「其書積讀ノ痕跡ヲ存ス」と述べているのです。これを書いたのは大正末から昭和初期の旧蔵者ですが、文意から察するに「繰り返し読む」ということでしょう。そしておそらく「セキドク」とでもよむのでしょう。同じ漢字で読み方を入れ替えるだけでまったく反対の意味になるのがおもしろいなあと思い、タイトルにしてみたという次第。わが勉強べやには積読本が多いんですけどね。 

 

February 1, 2022