コンテンツへスキップ

東京大学附属図書館アジア研究図書館
上廣倫理財団寄付研究部門
Uehiro Project for the Asian Research Library

COLUMN

朝鮮読書人の蒐書事情―柳希春『眉巌日記』から―

特任研究員 中尾道子

 

伝 李亨禄「書架図」朝鮮19世紀後半 韓国・国立中央博物館 

クリック一つで本が買えるようになって久しいが、本が高価で入手が困難であった時代、人々はどのようにして本を求めていたのだろうか。朝鮮の読書人の蒐書事情についてその手がかりとなるものに『眉巌日記草』(以下、『眉巌日記』と呼ぶ)がある。

著者の柳希春(号:眉巌、1513~1577)は16世紀後半を生きた碩学であり、現存する日記は希春が流配生活を送り、忠清南道恩津の地にあった1567年10月から亡くなる前々日までのもので、死後、宗家に蔵されていたものを、1936年から38年にかけて朝鮮総督府内におかれていた朝鮮史編修会が朝鮮史料叢刊の一部として刊行した。

院生時代に吉田光男先生のゼミでこの『眉巌日記』を読んでいた。一回で一日分読み進められればよいほうで、ゼミで読んだのは膨大な日記のうちのほんの一部に過ぎなかったが、16世紀の朝鮮社会を生き生きと伝える内容、日々の出来事を事細かく記録し、それに一喜一憂するリアルな記述の面白さにぐいぐい引き込まれ、たのしく読んでいたのをおぼえている(自分に担当が回ってくると大変ではあったが)。

『眉巌日記』には柳希春をとりまく膨大な数の人物のほかに、じつに多くの書物が登場する。柳希春は長い流配生活ののち政界に復帰し、亡くなるまでの11年間、中央の要職を歴任した。とくに古典籍などの印刷と刊行を司る校書官の長たる期間が長かったため、日記には中央における書籍の刊行や校正、地方官衙での刊行に関する記述も多い。希春は公務での収書のほかに、プライベートでも八方手をつくして書物を手に入れており、本に対して並々ならぬ執着をもっていたことがうかがえる。その入手方法は知人からの購入、寄贈、借用しての筆写など、人の手を介すもの、友人と自らの蔵書を交換する方法などじつにさまざまであった。柳希春は燕京へ使したことはなかったが、入手困難な唐本(中国刊本)については、明への使臣に購入を依頼したりもしている。

この他に注目される入手方法としては、「書冊儈」と呼ばれる本の仲買人を介して購入する方法である。「書冊儈」は本を売ろうとする人と買おうとする人をつないだり、自分で本を買いためておき、本を求めている人を探して売ることもあったようだ。『眉巌日記』には書冊儈が自宅に出入りしていることが記され、本を売ろうとする人と買おうとする人の間で、値段を交渉する場面がたびたび登場する。値段の交渉が成立すれば本の代金が支払われ、本と交換する。そして、仲買人には紹介の手数料が支払われる。この、本の仲買を専門的に行う人、すなわち「儈」がいつ頃誕生し、また、いつ頃まで活動していたのかはわかっていないが、日記の記述から少なくとも壬辰戦争(文禄・慶長の役)以前の16世紀後半には本を紹介して仲介料を得ることを生業とする者が存在したことになる。

さて、書籍蒐集に心を砕いていた柳希春であるが、自らも多くの著作をものしている。日記と文集以外に現存するのは『国朝儒先録』『新増類合』などわずかであるが、希春が経書の口訣(漢文に朝鮮式のテニヲハを付したもの)や諺解(漢文のハングルによる朝鮮語訳)にも力を致していたことがわかる。これは日記にみえる書物からもうかがうことができる。朝鮮においても中国の『千字文』が識字書として多く用いられていたが、15世紀後半頃より朝鮮でつくられた漢字学習書の『類合』が普及していたとされる。『類合』は朝鮮撰の『千字文』よりさらに簡略なものであるが、柳希春は亡くなる前年の1576年、この『類合』をもとに漢字一字ごとにハングルによる音訓を付して増補した『新増類合』を刊行している。

柳希春が生きた16世紀は朝鮮において印刷文化が著しい発展を遂げた時代であり、諺解の類や『訓蒙字会』『新増類合』といった漢字学習書が刊行されて、ハングルの普及が進んだ時期でもあった。希春の豊かな蔵書はその反映でもあり、また彼ら愛書家の登場が出版の盛行を支えてもいたのである。

【参考文献】

・藤本幸夫「李朝の文人と書籍:『眉巌日記草』を中心として」『語文叢誌』田中裕先生の御退職を記念する会、1981

・藤本幸夫「朝鮮読書人と書籍入手」『立命館白川静記念東洋文字文化研究所紀要』13、2020

・藤本幸夫「朝鮮坊刻本攷」藤本幸夫編『書物・印刷・本屋 : 日中韓をめぐる本の文化史』勉誠出版、2021

July 4, 2023