特任研究員 荒木達雄
昨年10月、U-PARLは「“パンダはかわいい!”は常に真実なのか?~文献で見る“パンダ観”の歴史」なるトークイベントを開催した。現在では「パンダはかわいい」に無条件で同意する方は多くいらっしゃるだろう(そうではない方も少なからずいらっしゃることは承知しております)。それではパンダを「かわいい」と思われる方は無条件に「かわいい!」と感じているのだろうか……と、この言い方では容赦ないご批判をいただきかねない。わたしはパンダを一目見た瞬間、直感的に「かわいい!」と感じている、打算などではない、と。わたしもそうです。動物園でパンダが目に入るとその瞬間、「ふふっ」と笑ってしまい楽しい気分になってくる。個人的なレベルでみなさんの気持ちを疑っているわけではありません。
パンダがかわいいと思う人が多いのはなぜか。この問題に対しては「ベビー・スキーマ」の考え方から説明がなされることが多い。ごく簡単に言えば、ヒトは、頭が大きい、目が大きい、まるまるしている、手足が短いなどの特徴を持つものに対し「保護したい」という感情を抱くようになっているという考え方である。なぜか。ヒトの嬰児は弱い。生まれてすぐに立ち上がって走り出す馬の仔などとはちがう。必ずや周囲の成獣(おとな)が適切に保護してやらねば生命を保つことすらおぼつかない。嬰児が生き延びられないことは種の保存の観点からもっとも望ましくないことである。そこで、嬰児の特徴に反応して「守りたい」という気持ちが芽生えるようにあらかじめプログラムされている。この保護したい、守りたいという感情が「かわいい」につながる。ところが、本来は種の保存のためのこのプログラムが環境の変化によって“誤作動”するようになる。すなわち、ヒトの嬰児だけでなく、これに近い特徴を持つほかのものに対しても「かわいい」と感じるようになる。パンダに対するこの誤作動が起きるようになって以降は、パンダを反射的に「かわいい!」と思う人があることは珍しくなくなる。「かわいい」と感じとれる条件が整っていれば、「かわいい」と感じること自体は個人の感情である。もちろん、反対にそれほど「かわいい」とは思わない人がいるのもおかしくない。さて、この誤作動はいつ、いかにしておきたのか。つまり、ヒトの目に映るパンダはいつから「かわいくなった」のだろうか。
昨年のトークイベントではこの議論の前提としてまず、中国の文献でパンダ(それらしきものも含む)がどのように記録されているかを確認した。およそ1600年まえにはパンダと疑われる動物の記録がある。その後も、数は少ないもののパンダらしき記載は散見されるが、「かわいい」もの「守りたいもの」として扱ったものは皆無である。近代に入ってもその傾向は変わらず、四川ではまれに捕獲された場合は毛皮が取引されていたとの記録もある。パンダが「かわいいもの」「守るべきもの」になるには、中華民国政府がパンダを自国にのみ棲息する貴重な動物であると認め、それが国の主権を象徴する存在となり、また欧米への誠意ある贈り物ともなると認識し、この考えにもとづいた政策を熱心に推進するようになることが必要であった。身も蓋もない言い方をすれば、「パンダは貴重なものだから大切にしましょう」という「政策」が、パンダを「かわいいもの」にしたのである。
以来、現在に至るまでパンダはかわいがられつづけている。その熱は基本的には上がる一方であると言ってよい。きっかけは政治的宣伝であったにしても、それまで数千年間かわいがられていなかったものがわずか80年ほどでこれほどになるにはどのような要因があったのだろうということがトークイベントにおける大きな関心となった。
座談会をとりしきってくださった藤岡みなみさんからは、「(最初のアイドルパンダといえる)スーリンが仔パンダであったことが大きかったのかもしれませんね」という指摘があった。生きてアメリカにわたった最初のパンダ・スーリンは、アメリカで最初のパンダブームをひきおこすのだが、そのもっとも有名な写真は、きょとんとしたような目でパンダをつれかえったルース・ハークネスにしがみついている一枚であろう。「赤ちゃんのようにまるまるして、目が大きく、弱々しく、守りたくなる存在」との印象を抱かせるに十分である。ヒトのプログラムが“誤作動”するのも仕方がないと思わせられる。
このような討論が繰り広げられるうち、パンダが「かわいくなる」にはさまざまな要素―政府の政策であるとか、生存に直結する利害以外のことに関心を向けられる余裕であるとか、野生動物の脅威を感じずに生きられる環境であるとか、人間が動植物を害していることへの反省であるとか―も大事であるが、なによりもメディアの発達が不可欠であるとのことで意見がまとまってきた。
パンダらしきものが文献に見えはじめたころ、その様子を伝えるのは文字だけであった。それもほとんどは実見した人ではなく、伝聞が記録されたものだと思われる。そこには「熊に似ているが色は白黒の動物で竹や銅や鉄などを食べる」などと記されているが、ここから「かわいい」動物を思い描くことのできる人はいただろうか。前近代の千数百年前の中国においてパンダを見るには深山に分け入らねばならず、そこで偶然遭遇する、大きな、熊型の動物を見て、「かわいい!」と思うことはむずかしかろう。たいていはおどろいて逃げたり隠れたりするのが先だ。ただ、ここは仮に、遠巻きにパンダをしっかり見られた人がいたとしよう。皇帝の園林にパンダがいたという説もあり、安全な環境でパンダをじっくり観察できる人もあったかもしれない。しかし、それでもなお、パンダを見たことにない人にそのかわいさを伝えることは困難であっただろう。
近代になり欧米にパンダの存在が知られると未知の動物を求める人々が欧米からやってきた。当時中国、特にその西南部自体がそもそも欧米人にとって未知の地域であり、珍しい動物や植物の宝庫と見なされていた。そしてパンダは狩猟の対象となった。いまから考えれば「パンダ狩り??」となるところだが、当時の人々にとっては、「最近まで欧米人が立ち入ったことすらなかった中国の奥地、チベットに近い山岳地帯に、熊によく似た白黒の大型動物がいる」という情報で行くのである。家永真幸さんの考察によれば、当時アメリカなどでは強い白人男性の象徴としての猛獣狩りがブームとなっており、それが冒険家が中国の奥地へパンダ狩りに踏み入る背景にあるのだが、パンダが「かわいい」と見なされていればさすがに猛獣狩りの対象にはならなかっただろう。そんななか起きたのがルース・ハークネスによるはじめての生きたパンダのアメリカ上陸であった。ルース・ハークネスは夫ビルが中国へパンダ狩りに渡ったものの果たせず客死したことで、その遺志を継がんと中国に赴き、とうとうパンダの仔を手に入れた。生きたパンダを初めて見た、またその写真を初めて見たアメリカの人々はそのかわいさを知り、パンダブームが巻き起こることになるのである。「謎の猛獣」が「かわいいパンダ」に変わるのに重要な役割を果たしたのが「赤ちゃんのような仔パンダの写真」であったことは想像に難くない。伝聞、文字では伝え得なかったパンダのかわいさが、写真というメディアにより効果的に、迅速に伝わるようになったのである。このパンダブームのなかで生まれたパンダのぬいぐるみが黒柳少女の手に渡り、その終生の友となったのは有名な話だが、そのぬいぐるみの写真を見ても成獣というよりは擬人化された仔パンダのように見える。
その後メディアは次第に発展していく。映像ができ、カラー写真ができ、カラー映像が現れる。一般の人も気軽に写真をとれるようになる、ビデオで同じ映像を好きな時に繰り返し見られるようになる、放映された映像を個人が記録できるようになる…。これによりパンダのさまざまな画像、映像が社会に出回る。人の好みはそれぞれであるから、パンダとはいっても異なる画像、映像が多ければ多いほど、“刺さる”ものに出会える確率は高くなる。
さらにメディアはそれまでの「与えられる」ものから「発信する」ものへと急速に変容する。いくら画像や動画が豊富にあるといっても、かつて世に出回るのはネットワークを有する新聞・雑誌・テレビなどの大手メディアが選んで視聴者に提供するものだった(一般の人が投稿したものも、大手メディアの選抜を経たものであるには違いない)。インターネットの普及によりその構図が崩れた。人々は自分の好きな構図、好きなタイミングをとらえた画像・動画を作成し、直接世に問うことができるようになった。自分の“推しポイント”をことばだけでなくよりリアルな映像・動画で示し、またそれに共感する人が現れる。こうしてパンダを直に体験していない人までもがパンダに触れているかのような体験を共有することにもなり、「かわいい」パンダは指数関数的に広まっていく。
そんなインターネット全盛の現代、実際にパンダの“推しポイント”はどのように表現されているのだろうか?
ここでは中国の短文投稿サイト「微博」でその様子を垣間見てみよう。
以下に掲げる例文は筆者が昨年(2023年)11月から今年6月にかけて「微博」で見たものである。中国語ネイティブが“推し”にどんなことばを使っているのかに興味があるため、日本人が中国語で書き込んでいるとわかるものは除外した。とはいえ、中国語の流暢な日本人も少なくないであろうから、完全に排除しきれているわけではないであろうことはご容赦ください。本来ならば短文とともに投稿された画像もお見せしたいところではあるが、権利関係の問題もありそうなので、ここには文字のみを転載する。文字列をコピーして検索すれば一緒に投稿された画像や動画にたどりつけると思う。なお、( )内の日本語は雰囲気を訳したもので、厳密なものではないのでご注意ください。
まず、単純に「かわいい!」と述べている例。
深爱福宝的米粉 来自 大熊猫福宝超话 #福宝# #大熊猫福宝# (「大熊猫福宝超話」より。#福宝 #大熊猫福宝) |
「深爱福宝的米粉」は投稿者名、「超话(超話)」はコミュニティのようなもの。この方は韓国に行っていたパンダ「福宝」を語るコミュニティに入っている福宝ファン。どんなところがかわいいのかは添付した写真でわかるよね、ということでしょうか。なお、「微博」では#でキーワードを両側からはさむ。
どんなところが「かわいい!」と具体的に言及している例も多い。
改不了一点鹅 哇塞,这个大熊猫扁扁的, 好像一块熊猫地毯 (わーお、このパンダ、平べったくてパンダ絨毯みたい。やわらかくてなでたら気持ちよさそう) |
美兰的小迷妹 来自 大熊猫美兰超话 (ははは、パンダ絨毯が2枚。かわゆす) |
任AIIen-墨曦 来自 熊猫守护者超话 (まるまるとしているのもひとつの美しさ、ふわっふわな感じできゃわゆい) |
lucky本ki 小方小朋友尊嘟好可爱,又白又软,我拍拍拍~ (小方ちゃんきゃわゆい、白くて柔らかくて……写真パシャパシャパシャ~ 2024年2月15日 都江堰中華大熊猫苑にて) |
日本語SNSなどでも「ふわふわ」、「なでたらきもちよさそう」というコメントはよく目にする。このあたりの感覚は所違えど同じようである。もっとも、飼育員さんによると「見た目よりごわごわしている」のだそうだけれど……。
なお、最後の「拍拍拍~」の「拍」は「写真を撮る」という意味の動詞。この投稿の下には画像がたくさん添えられている。「撮る撮る撮る~」と訳してもいいのだが、中国語では動詞をそのまま擬音語・擬態語化することがある。たとえば、マンガでホウキを持って手を動かしている人の脇に「我掃、我掃~」と書かれていることがある。そんなときは「わたし、掃きます、わたし、掃きます~」と訳さずに「はきはき」「さっさっ」などと訳してもよい。そういうわけで今回は「パシャパシャ」と訳してみた。
伊琳1993 来自 大熊猫和叶超话 (オーマイガー、まぢかわいい、まるまる太って、つねってみたい…) |
同じようなことを思われた方、いらっしゃるでしょうか?
動作について「かわいい」と称している例も多い。
熊猫滚滚社区 来自大熊猫和花超话 (今日の花局長、タケノコを食べ終えるとすぐに氷のうえによじのぼっておねんね。かわいい~) |
中国のアイドルパンダ・和花に関する投稿。和花については後述する。
熊猫五宝成长日记 来自 第五人格超话 (今日はパンダ基地の小天使・北侠ちゃんと観察。宝物ちゃんの目のなんとすきとおっていること!) |
慧_wen 这座机像素也掩盖不了我们小福blingbling的大眼睛和无敌美貌,小福状态看上去不错,简直可爱爆。 (このカメラの画素数でもわれらが福ちゃんのきらっきらの大きな目と無敵の美貌は隠しようがない。見た感じ福ちゃんの状態はよさそう、はっきり言ってかわいすぎる) |
叫茜茜呀 来自 大熊猫福宝超话 (お手手を噛む福姫さまもかわいい。福ちゃん、おばちゃんにも噛ませてよ。どんな味だか知りたい) |
こちらは韓国生まれの“お嬢さま”福宝についての投稿。「可爱爆」は「かわいい」の後にその程度を表す「爆」がついたもの。「可爱到爆炸」(爆発するほどかわいい)と書くこともある。最上級の表現として「~すぎる」 「~しかかたん」とでも訳しておきましょう。
别抢小朋友的枕头 来自 娱乐圈可爱多超话 (帰国から1か月あまり、日本帰りのジャイアントパンダ・香香の最新動画。タケノコを食べる途中、5秒間もぼーっとして、かわいすぎる!) |
ご存じ、香香(シャンシャン)。「太可爱了」は中国語を勉強している人にはおなじみ、教科書にも出て来る正規の(?)表現である。「太~了」で程度が想像を超えて行き過ぎているという感じを表す。
木嘛宝贝在干嘛 来自 大熊猫和花超话 (おしりふりふり、はははははは、かわゆすぐる) |
ruirui_和花叶同行 来自 大熊猫和花超话 (花ちゃん、ブランコの上でぐねぐねしててかわゆす。おやすみ、私の宝物ちゃん。ずっとこんなふうにだら~んとしていてほしい) |
目がきれいでかわいい、のんびりした動作、どこか頼りない動作がかわいいという感想が目につく。
今天我被翻牌了咩 来自 大熊猫和花超话 (朝イチから花ちゃん竹をカリカリ食べてるのが見られた。癒されるよ~、気分もすっかりよくなった。まっしろ、ふわっふわなかわいい子~) |
「可爱」の語こそないが、のんびりした頼りない動作だからこそ見ていて暖かい気持ちになるということだろう。
また、日本でおなじみのあのことばも登場する。
励志做只熊猫 #大熊猫#国宝不愧是国宝 #国宝熊猫~萌到爆炸了 (さすが国宝。国宝パンダ、かわいすぎる!!) |
「萌」を中国のネット辞典などでさがすと、「かわいいこと」と説明されているが、本来「萌」にそのような意味はないわけで、日本のサブカルチャーにおける「萌え」から来たものと考えて大過ないだろう。もちろん中国語のなかにとりこまれることで含意に幾分かの変化は生じるだろうが、パンダは「ふわふわした」、「愛すべき」、「見ている人の心を溶かす」、「抱きしめたい」キャラクターなのである。
_熊乐乐 来自 大熊猫香香超话 (シャンシャン姫がファンを見つけて、ファンサしに来てくれた!突然すぐそこにすわって、おおきなお顔をこっちに向けてる。まるで笑ってるみたいで、見つめて、見つめて…この時間がもっと長くつづいてくれたらいいのに!) |
「パンダの顔は笑っているみたいに見える」とは日本語の書き込みでも目にしますね。これが、「パンダが笑っている!」になると擬人化と言えるでしょう。実際、ヒトを描写するのと同じようにパンダを表現する例も多い。
白白姐看熊猫 花花对着我们笑诶 (花ちゃんがこっちを見て笑ってるよ~!) |
我爱的滚滚 来自 大熊猫萌兰超话 (么么はタケノコを食べ終えると籠を持ち上げて香りをくんくん、ぼんやりとしてしばらくなにかを考えて、籠を放り投げるやきょろきょろとあたりを見回して…) |
パンダを描写するときによく使われる「ぼーっとする」、「ぼんやりなにかを考えて」なども、実際にパンダにとってどうなのかはわからないけれど、人間のそのような動作に見えるというわけで、擬人的表現と言っていいだろう。パンダのしぐさは人間に重ね合わせやすく、またそれが親近感を増幅させるのであろうか。この親近感がさらに増すと、パンダにセリフをあてる、いわゆる「アテレコ」が行われる。
彡秒钟的记忆- 花花:我告诉你,吃素也会胖的 (花ちゃん「教えてあげる。ベジタリアンでも太るのよ」 ) |
猫猫_喵c 来自 大熊猫和花超话 (花:妹ちゃん、なにをぼーっとしてるの、なんで寝ないの、眠くないの?) |
先ほど来幾度も登場する「花」 「花花」 「花局長」はみな同じ「和花」のことで、現代中国のアイドルパンダ戦国時代の頂点である。その理由はさまざまあるが、ひとつにその外見があることは間違いない。
ときはいま パンダアイドル 戦国時代
まるまる太った体に短い手足、よちよちと動くさまに多くの人が心を打ちぬかれた。 「和葉」は和花の双子の妹。つい最近まで雄だと思われていたが、実は雌であることがわかった。
大熊猫和花Bot 来自 大熊猫果赖超话 (二狗「さっきファンのおばちゃんが花ちゃんを袋につめてこっそり連れ帰ろうとしてたよ」 ) |
「二狗」は成都ジャイアントパンダ繁殖センターに住むパンダ・潤玥の愛称。潤玥が和花に耳打ちをしているかのような画像にセリフを当てている。 「ee」は「姨姨」のネット用語。動物などかわいいものをめでるファンたちが、対象を子どもに見立てて自らを「おばちゃん」 「おばちゃんたち」と言うようになったことから来たのだという( 「ee」と「姨姨yíyí」とは発音が似ている)。
和花がかわいいあまり持ち帰ろうとしている人がいるよ、ということなのだが、ここでパンダ自身に「かわいがられる対象」「子どもとしての立場」のことばづかいをさせていることに注目したい。潤玥は2020年6月生まれの雌。2024年4月現在ですでに3歳10か月で成獣と言ってよい年齢であるにもかかわらず。
和花のセリフ、「尊嘟假嘟?」は「真的假的?」(ほんとに?)のネット用語である。「真的假的?」は標準中国語では「zhēnde jiǎde?」と発音し、「尊嘟假嘟?」は字の通りに発音すれば「zūndū jiǎdū?」となる。舌先を上の歯茎よりやや後ろの上あごにつけて摩擦を作り出してからさっと上の歯と歯茎の間に舌先を移して音を止めると「zhēn」となり、そのままの舌先の位置で喉の奥から声を出しながらぱっと舌先を歯の裏からはずしてちょっとだけひっこめると「de」の音が出る。むりにカタカナで書くと「ヂェンドォ」のような音。これに対して、「zūn」の「u」は日本語の「ウ」よりも口先をとがらせた音で、これもむりに書くと「ズゥンドゥー」のような音になる。標準中国語に比べると非常に舌っ足らずな子どもっぽい言い方になる。なお、決して「u」という音が必ず舌足らずで幼児語になるというわけではない。本来ならば「zhēnde jiǎde?」と発音すべきであるところが「zūndū jiǎdū?」になることにより感じられる幼児っぽさであることをご理解ください。
「尊嘟假嘟?」はネット上でよく用いられる表現であるため、これを用いている理由が、即パンダの幼児性を表現するためだとまで断言することはできないが、パンダに標準的なセリフをしゃべらせていない、舌足らずなことばを当てていることは注意してよい。
爱穆你的快勒 来自 大熊猫胖大海超话 (またぼくをハローキティみたいに言って!ほんとに怒りましゅよ!) |
「胖大海」は現在北京動物園にいる雄のパンダ「福星」の愛称。まだ小さかった(同年齢のパンダの間では大きな体格だったが)ころ、部屋の角にはまり込んですわっている写真が大評判となり、以来アイドル的人気を誇っている。白いはずの毛がピンク色を帯びていることでも有名。生まれは2017年6月、2024年4月現在でまもなく満7歳の成獣である。
「窝」(wō)は「我」(wǒ)の代わり。やはり標準的発音である「我(わたし)」が言えていないのである。パンダとしては立派な大人であるにも関わらず、その外見のかわいさやどことなくたよりない感じから人間の子どもに重ね合わせるところは日本のSNSなどでもよく見かける。
そして、対象を子どもとしていると、見ているほうも幼児語になってしまうところもおなじである。
太阳每天环绕着你 来自 熊猫守护者超话 (花ちゃんが水飲んでるところ、百回でも見ていられる!がちでかわゆすぐる) |
「可爱鼠了」は「可爱死了」であるべきところ。「形容詞+死了」は程度が極端であること(~すぎる。とんでもなく、極度に~)を表す。「死」は「sǐ」と発音する。口を力いっぱい横に広げ、舌先を下の歯の裏に置き、わずかに開いた上下の歯の間の隙間から「スー」と発音する。「鼠」は「shǔ」で、口をすぼめて舌先を前方に上げ、舌先と上あごとの間の隙間から空気を送りつつ「シュー」と発音する。「sǐ」と言うべきところを「shǔ」と発音すると同様にやや舌足らずな幼稚な印象になる。
彡秒钟的记忆 花花嘴里嚼着竹叶,怀里抱着竹叶可爱鼠了! (花ちゃん、口で竹の葉をもぐもぐしながら、胸に竹の葉を抱えてるのきゃわいい) |
嘴劈甘蔗的辣mer 来自 大熊猫和花和叶超话 (暑いと自分で涼しい場所を見つけて眠るのあたまよすぎ、池で眠ると涼しいよね) |
「舌足らず」に訳すか、「ネット用語」っぽく訳すか、迷ってしまう。ネットスラングにはくわしくないのだけれども。試しに統一性にはこだわらずいろいろに訳してみた。
ざっと眺めていると、日本語でのネット上の「パンダの語り方」によく似た傾向であることがうかがえる。あまり地域差、言語差のようなものはないのだろうか?
记录小熊账本的呆萌熊宝 来自 微博视频号 (昭美ママ、小鰲拜を激しく吸ってる。パンダは毎日パンダ吸いができていいなあ) |
景瑶「青年亜文化視角下迪“吸猫文化”」(『視聴』2018:10)によると、“吸猫”がインターネット上で流行し始めたのは2017年であったという。“吸猫”とは「飼い主の猫に対する親愛の動作。猫を抱きしめて口をつけ、さらにはがまんしきれずに力をこめてそのにおいを嗅ぐことをも含めて言う」。日本語の「猫吸い」と同じことである。猫を飼っている人は親愛の情を込めて“吸猫”をすることができる、しかしパンダを愛する私たちは“吸熊猫”をすることはできない、ということであろう。パンダのお母さんはもちろん子パンダに対して思う存分“吸熊猫”できるのである。
呉凡「認知域下“吸X”的範疇拡展及語用研究」(『現代語文』2021:5)は、従来の“吸”の意味から拡張した、「慕わしく思う、好きだと思う」を表す“吸X”(“X”は好きだと思う対象)という新しい言い方が見られること、そのもっとも古い例は2016年にウェブページで使われたものであるという(どんなものでも調べている人があるものですね)。この論文の挙げるさまざまな“吸X”の例を見ると、“吸偶像”(“偶像”はアイドル。実際にやったら大スキャンダルだ)、“吸漫画”(本のにおいをかぐのが好きな人はいるが、これはそういう意味ではない)など、実際に“吸う”動作がない、「極度の親愛の情を持っている」ことを指すところまで用法が拡張している。パンダに関してもそうで、動物園やパンダ繁殖センターへ行ってパンダをめでるだけでも“吸熊猫”と言ってよいようである。
要要每天睡不醒 给我也吸吸,给我也吸吸,什么时候我能这样吸熊猫 (私にも吸わせて、吸わせて、いつになったらこんなふうにパンダ吸いができるの) |
柒瑾凉鸢 来自 熊猫守护者超话 (花ちゃん、ほんとうにかわいい子、毎日楽しく暮らせますように!ここにパンダ吸いにおいでよ。春はパンダ吸いにふさわしい季節) |
パンダ吸いのハッシュタグまである。
成都发布 来自 熊猫超话 (【#春は実にパンダ吸いによい季節】パンダに“チュッチュッチュッ”ってしてみたらどんな反応をすると思う?) |
動物を呼ぶ人がよくする、唇をまるめて舌で出す音が“嘬嘬嘬”である。
そして現場に行って“吸熊猫”できない人がするのが“雲吸熊猫”である。
大脸猫爱做梦- 来自 大熊猫和花超话 (今日も一日宝物ちゃんのことを考えていた。ただ“雲吸花”しかできない…) |
和花を見に行くことができず、想像のなかでめでるしかなかったというのだが、それがなぜ“雲吸”なのだろうか?
確たることはわからないが、用例を見ているとこれもどうやらインターネット用語から来たものではないかと思われる。
锦观新闻 来自 熊猫超话 (一緒に“雲吸熊猫”しよう!本日分のごろごろ中継をご査収ください。#パンダはあらゆる不愉快さを癒す#) |
「锦观新闻」は『成都日報』という新聞社のネットニュース。パンダがごろごろ転がる動画を公開して、これで“雲吸”してくださいと言っているのである。
啦啦噜噜叭叭 打开抖音的一半时间云吸大熊猫 (TikTok見てる半分以上の時間は“雲吸大熊猫”) |
开饭了大熊猫 建了一个熊猫爱好者的粉丝群。大家在里面一起云吸熊猫,分享壁纸,表情包,总之就是一块儿玩儿 (パンダファンのグループを作りました。みなさんここで一緒に“雲吸熊猫”したり、壁紙やスタンプを交換したり、ともかくともに遊びましょう) |
勘のよい方はすでにお気づきのことと思うので、これ以上もったいつけるのはやめましょう。実際に“吸熊猫”をしに行くことができないから、インターネットを通じて“吸熊猫”をするのが“雲吸熊猫”なのである。ゆえにこの“雲”は“クラウド”なのであろう。中国語ではクラウドを“雲端”、クラウドの保存スペースのことを“雲盤”、そこに保存することを“雲儲”と言う。“雲吸熊猫”は“クラウドパンダ吸い”、“ネットパンダ吸い”ということなのである。それならばわれわれも“パンダ吸い”とは言わねども、日々やっていることである。実際にパンダを見に行き、そこで写真や動画を撮影する人々があり、(そのすべてがインターネットに公開するわけではないが、)その背後には数百倍、数千倍の“ネットパンダ吸い”がいる。この構図は中国でも日本でも同様である。「パンダはかわいい!」が広く受け入れられるにはメディアのはたらきが欠かせないというところからはじまったこの基礎調査、これをもっともよく象徴することばが“雲吸熊猫”であると言ってよさそうだ。
[参考文献]
家永真幸『中国パンダ外交史』、講談社選書メチエ、2022年
小林朋道『モフモフはなぜ可愛いのか―動物行動学でヒトを解き明かす―』、新潮選書、2024年
景瑶「青年亜文化視角下的“吸猫文化”」、『視聴』2018:10
呉凡「認知域下“吸X”的範疇拡展及語用研究」、『現代語文』2021:5
お知らせ |
現在、アジアンライブラリーカフェ「パンダを語ることば(仮)」の開催を計画しております。
東南アジアにおける「パンダを語ることば」の調査にご協力くださる若手研究者を募集しております。
詳細は アジアンライブラリーカフェ「パンダを語ることば(仮)」の登壇者を募集します をご覧ください。
8.Aug.2024