成田健太郎
U-PARL特任研究員
新企画「アジア研究この“一冊”」の記念すべき第一弾に、勢いあまって12冊もの書影を掲げてしまったが、筆者が紹介するのはこのうち右端の一冊である。
『中国書論大系』は、書道関連書籍を二本柱の一つとする二玄社という出版社によって1977年に刊行が始まったシリーズで、書学研究の専家である中田勇次郎先生(故人)の編集のもと陸続と出版された。当初全18巻完結を見込んで企画されたが、残念ながらうち3巻を未刊としたまま時が流れている。 「書論」とは、日本で言うところの書道に関する理論や記録などを指し、前近代の中国人が著した主なものだけ集めても相当な分量になる。
筆者はこの『大系』の既刊15巻のうち12巻を架蔵しているが、そのなかでも付き合いの最も長いのが下の写真に見える第1巻である。本書には、漢魏晉南北朝時代の書論12篇を収め、解題、本文校訂、現代日本語訳、詳細な注釈を加えるほか、同時代の書論史についての編者による概説「中国書論史(一)」、同時代の書人(書の腕前によって名を知られた人物)154名についての小伝を附している。
本書には、所属大学院の書庫の常連になった修士課程入学すぐの頃から「書庫内立ち読み」によって親しんでいたが、修士論文執筆を前にして、意を決して古本で購入したことを記憶している。今になってみれば何でもない買い物だが、当時の筆者にとっては、身銭を切って専門書を買うという行為自体が、何だか背伸びをして研究者の真似をしているように感じられ、晴れがましいような気恥ずかしいような、特別な体験だったのだ。
かくして筆者の座右の書となったこの一冊は、のちに筆者の中国留学のために船便で東シナ海を渡り、その函は名誉の負傷を負ってしまった。研究に必要で、かつ中国で見ることのできない本として真っ先に選んだこの本は、思慮の浅い筆者によって不運にも段ボール箱の底に収められてしまい、降りかかる災難から本体を守るため、親愛なる函同志が犠牲となってくれたのである。写真のように和紙である程度の修復を試みたのは、筆者のせめてものねぎらいとつぐないの気持ちである。
出会いから今に至るまで、筆者がこの本から学んだことは数知れない。中田先生による「中国書論史」は、今なお最も簡明かつ正確な書論史の像を示してくれているし、各篇の訳注は、テキストから何をいかに読み取るべきか、研究者ならば「どこまで分からなければならないか」を教えてくれた。筆者は上述のようにこの本を物理的に古びさせるだけでなく、自分の研究によってその内容を少しでも古びさせてやろうと頑張ってきたが、その戦いは今後も長く続くだろう。
さらにこの本は、解題や注釈を通して、また別の読書へと筆者を導いてもくれた。たとえば、本書に収録される書論のうちいくつかは、中国古典文学大系54『文学芸術論集』(平凡社1974)に現代語訳があり、さらに同書には、『文心雕龍』、『歴代名画記』等中国の代表的な文学論・絵画論の邦訳が収められていて、当時その邦訳の読解すらままならなかった筆者にとっても、芸術論というひろがりを意識し、自分の研究の位置をより広い視野から確認するきっかけとなった。
本ブログ読了後すぐさま本書を求めて図書館に走る読者は少ないと思うが、20世紀における日本の書学研究の一つの成果として『中国書論大系』があること、そして今後もその価値は減じないことを、一人でも多くの人に知ってもらえれば嬉しい。
【書誌情報】
中田勇次郎[編集],福本雅一ほか[訳注]
ISBN:4-544-01014-4
出版地:東京
出版社:二玄社
出版年:1977年
図版30ページ,本文380ページ
大きさ:23cm