【アジア研究この一冊!】 桜井由躬雄文庫のベトナム伝統演劇関係本について

U-PARL特任研究員
澁谷由紀


桜井由躬雄文庫のベトナム伝統演劇関係本

 別記事「桜井由躬雄文庫」で触れているように、歴史地域学者の故・桜井由躬雄氏の旧蔵資料がもととなった東京大学アジア研究図書館の桜井由躬雄文庫の中心は、ベトナム語で記述されたベトナム史に関する図書である。また同文庫には、地理、政治、経済、農業などさまざまな主題の資料が多く含まれているが、これは桜井氏の研究対象や研究手法が狭い意味の歴史学のそれに収まらなかったことを考えれば当然といえる。 

 しかしながら、同文庫の中には、桜井氏の生前の研究とほとんど関係がなかったのではないかと思われる資料群、言い換えると、生前の桜井氏を知る人であればまさかそんな資料があるなんて」と驚くに違いないような資料群があるその資料群の一つにベトナム伝統演劇に関係する資料(以下、ベトナム伝統演劇関係本と呼ぶ)ある。 

 ベトナム伝統演劇のうち、おもなものは、110世紀にうまれ、18世紀に現在の形で普及し、主に北部紅河デルタの村々において村落守護神を祀る神社の境内などで演じられてきた、純ベトナム的・民衆的な歌舞劇である「チェオchèo」、(213世紀末の元寇の際にベトナムに伝えられた中国演劇に起源の一つをもつといわれ1618世紀、ベトナムの政治権力が分裂していた時代の中部を中心に発展し、ベトナム最後の王朝である阮朝の宮廷において愛好された古典歌舞劇である「トゥオンtuồng」、(3仏領期、第一次世界大戦後の南部においてメコンデルタの民謡をベースとしかつトゥオンに「改良(カイルオン)」を加えた新しい芸術として創作され1960年代の南部で大流行した歌舞劇「カイルオンcải lươngがあり、この他に412世紀には北部紅河デルタで演じられていたといわれるベトナム独自の水上人形劇「ムアゾイヌォックmúa rối nước」がある(起源についてはそれぞれ諸説がある)。 

 同文庫にはこれらの伝統演劇のうち、演劇一般やチェオ、トゥオン、カイルオンを主題とした概説書や研究書、台本や事典が含まれている。たとえば20219月現在CiNii Books(全国の大学図書館等が所蔵する本(図書や雑誌等)の情報を検索できるサービス)に件名「Theater – Vietnam」とともに登録されている書誌の数はおよそ75であり、日本の図書館に所蔵されているベトナム演劇関係本の量は多くない。また東京大学附属図書館の所蔵冊数(登録済み冊数)はこれまでわずか数冊にとどまっており、近隣の大学、たとえば東京外国語大学附属図書館などにもそれほどの数がない。桜井由躬雄氏旧蔵のベトナム伝統演劇関係本は東京大学および関東地方におけるベトナム演劇関係本の不足をいくばくか補うものである。 

 読者の多くにとって伝統演劇はとっつきにくいジャンルであろう。また日本の学界において、ベトナムの伝統演劇は水上人形劇を唯一の例外として)インドネシアなど他の東南アジアの国の伝統演劇に比べてあまり着目されない芸術だった 

 しかし、ライター前川健一氏のタイ・ベトナム枝葉末節旅行1996年、めこんの中で、前川氏がホーチミン市でカイルオンを観て満足、大満足」したという記述があることや220頁) 、フォトジャーナリストの木村聡氏が『メコンデルタの旅芸人』2019年、コモンズ)の中で、カイルオン(南部発音風に表記すれば「カイルン」)の旅芸人一座の野外公演に出くわしたとき、「体の内側ではアドレナリンやらドーパミンやら、なにやらの脳内物質がドクドクと出ていたのだろう。時が経つのも忘れ、驚くほど激しくフィルムを消費し、ダクダクと汗をかき、酸欠になりそうになって一息つくと、すでに舞台は終演となっていた」(9頁)と書いていることからわかるように、ベトナム伝統演劇はベトナムを訪れる者を言語の壁を越えて魅了してきたしその魅力は一般書を媒体として発信されてきた。2020年にはカイルオンの花形役者を登場人物の一人とする映画『ソン・ランの響き2018年、レオン・レ監督が日本でも公開された。カイルオンをはじめとするベトナム伝統演劇に対する関心は、アジア映画ファンの中でかつてなく高まっていると思われる 

 またトゥオンやカイルオンの起源によく示されているように、ベトナムの伝統演劇はアジア各地の伝統演劇やヨーロッパの演劇の影響を受けている。ベトナム演劇研究はベトナム研究の枠にとどまらない発展可能性を秘めた研究分野である 

 下記に桜井由躬雄氏旧蔵の伝統演劇関係本と、同じく桜井由躬雄氏旧蔵のベトナム民族楽器についての本――ベトナム民族楽器は伝統演劇と切っても切れない関係にある――の一例を挙げる図版や楽譜が掲載されているためにベトナム語初学者や未習者にとってわかりやすい本もある。ベトナム伝統演劇に関心を持った方はぜひ手に取ってほしい。 

1: 桜井由躬雄文庫のOPAC登録作業は現在進行中です。下記に挙げた本の一部はOPAC未登録です。
2: 主題別に刊行年の順に掲載しています。 

 演劇一般 

 Trần Văn Khải. 1970. Nghệ-thuật sân-khấu Việt-Nam: Hát-bội, cải-lương, thoại-kịch, thú xem diễn kịch. [Saigon]: Khai-trí.
チャン・ヴァン・カイ著『ベトナム演劇芸術:ハットボイ、カイルオン、話劇、演劇の楽しみ』(1970年、サイゴン、開智書店)。ハットボイ、カイルオン、話劇についての概説書であるハットボイは南部でよく用いられるトゥオンの別称。ハットボイについては、ベトナム独自の演劇であることを強調していたり、化粧のイラストが解説付き・多色刷りで掲載されていたりして興味深い。カイルオンについては多くの紙面が割かれている。 

 Viện Sân khấu, ed. 1984. Lịch sử sân khấu Việt Nam (Sơ thảo). Tập 1. Hà Nội: Viện Sân khấu.
舞台院編『ベトナム舞台史(初稿)』第1巻(1984年、ハノイ、舞台院)。ドイモイ前のハノイで刊行された舞台史。第2巻は東日本では東京外国語大学附属図書館に所蔵されている。第1巻は19451975年のトゥオン、チェオ、水上人形劇を扱う。チェオの項目では195419746月にかけて刊行されたチェオに関する記事や書籍のリストが掲載されている。 

 Hội Nghệ sĩ Sân khấu Việt Nam, ed. 1984. Sân khấu qua một chặng đường lịch sử (kỷ yếu đại hội II Hội nghệ sĩ sân khấu Việt Nam). Hà Nội: Hội Nghệ sĩ Sân khấu Việt Nam.
ベトナム舞台芸術人会歴史からみた舞台(ベトナム舞台芸術人会第2回大会紀要)』(1984年、ハノイ、ベトナム舞台芸術人会)。1983年にハノイで開催された研究大会の紀要。巻末にベトナム人民軍、内務省、各省の人民委員会から大会に送られた祝辞が掲載されている。当時の社会背景がわかる興味深い資料である 

演劇一般の概説書や演劇史を扱った本

 チェオ 

  Khắc Khoan. 1974. Tìm hiểu sân khấu chèo(チェオ舞台の考察). [Saigon]: Lửa thiêng.
ヴー・カック・コアン著『チェオ舞台の考察』(1974年、[サイゴン]、ルア・ティエン)統一直前の南部で刊行されたチェオに関する注付きの研究書古典籍が豊富に引用・参照されており、巻末には参考文献リストがある。国内では東京大学アジア研究図書館のみ所蔵。 

 Hà Văn Cầu, comp. 1976. Tuyển tập chèo cổ. Hà Nội: Văn hóa.
ハー・ヴァン・カウ輯注『古典チェオ選集』(1976年、ハノイ、文化出版社)。ベトナム民主共和国が八月革命前にチェオを上演していた芸人たちを招聘してチェオの古い演目を復活させた事業の成果を刊行したもの。「クアン・アム・ティ・キン(Quan Âm Thị Kính )」ほか六つの演目を掲載している。 

 Hà Văn Cầu. 1977. Mấy vấn đề trong kịch bản chèo. Hà Nội: Văn hóa.
ハー・ヴァン・カウ著『チェオの台本に関する諸問題』(1977年、ハノイ、文化出版社)。チェオについて、台詞、登場人物、所作、様式という四つの側面から論じた本。巻頭には1970年代までのチェオの歴史に関する解説がある。 

 Ca Kịch Lịch Sử. 1979. Hà Nội: Văn hóa.
『歴史歌劇』(1979年、ハノイ、文化出版社)。歴史を題材にしたチェオなど四つの劇の台本を収録している。 

 トゥオン 

 Hoàng Châu , comp. 1978. Tuồng cổ. Nội: Văn hóa.
ホアン・チャウ・キー『古典トゥオン』(1978年、ハノイ、文化出版社)。トゥオンについての総説と、代表的な演目「ソン・ハウ(Sơn Hậu)」「タム・ヌー・ドー・ヴオン(Tam Nữ Đồ Vương)」について、総説と登場人物紹介、台本が掲載されている。 

 Nguyễn Lộc and others, eds. 1998. Từ điển nghệ thuật Hát Bội Việt Nam. Nội: Khoa học hội.
グエン・ロックほか編『ベトナム芸術ハットボイ事典』(1998年、ハノイ、社会科学出版社)ドイモイ後のハノイで発行されたトゥオンの事典。英語の序文が付されている。 

 カイルオン 

 Vương Hồng Sển. 1968. Cải-lương đã 50 tuổi: Hồi-ký 50 năm mê hát. Sài Gòn: Phạm Quang Khai.
ヴオン・ホン・セン著『カイルオン50歳に: 歌に魅せられた50年の回顧録』(1968年、サイゴン、ファムクアンカイ社)。
1902年生まれの有名な南部知識人ヴオン・ホン・センのカイルオンについての著作。 

Trần Việt Ngữ. 1986. Ba Vân: Trên sân khấu cải lương. Nội: Văn hóa.
チャン・ヴィエット・グー著『バー・ヴァン:カイルオンの舞台のうえで』(ハノイ、1986年、文化出版社)。1908年に南部で生まれたカイルオンの名役者、バー・ヴァンの逝去直前に出版された伝記。バー・ヴァンは仏領期から1980年代まで、南北ベトナムの双方の芸能界で活躍した。  

チェオ、トゥオン、カイルオンを主題とした概説書や研究書、台本の一部

【ベトナム民族楽器 

Lê Huy and Huy Trân. 1984. Nhạc khí dân tộc Việt Nam. Hà Nội: Vǎn hóa.
レー・フイ&フイ・チャン著『ベトナム民族楽器』(1984年、ハノイ、文化出版社)。ベトナムの民族楽器およそ26種それぞれについて、構造や音、演奏法などを紹介した本。国内では東京大学アジア研究図書館のみ所蔵。 

Xuân Khải and Đức Bằng. [1983]. Sách học nguyệt. [ Nội]: Văn hóa.
スアン・カイ&ドゥック・バン著『ダン・グエット(月琴)を学ぼう』(1983年、ハノイ、文化出版社)。ダン・グエット(月琴の教本。現在でも民族楽器の教本類をベトナムの書店で購入するのはなかなか難しい。 

月琴の教本(左)とベトナム民族楽器に関する概説書(右)

<おすすめの参考文献>
清水政明・伊澤亮介. 2014. 「ベトナムの芸能:民族の移動、外的影響による伝統芸能の広がり」赤松紀彦編『朝鮮半島、インド、東南アジアの詩と芸能』134-143. 京都造形芸術大学東北芸術工科大学出版局藝術学舎. 

Pawit Mahasarinand, Ty Bamla, Jennifer Goodlander, Khoun Chanreaksmey, Siyuan Liu, and Trinh Nguyen. 2016. “Modern Theatre in Mainland Southeast Asia.” In Routledge handbook of Asian theatre, edited by Siyuan Liu, 351-369.London: Routledge.

20211012