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東京大学附属図書館アジア研究図書館
上廣倫理財団寄付研究部門
Uehiro Project for the Asian Research Library

COLUMN

ベトナム戦争終結から50年

特任研究員 田中あき

 2025年4月30日で、ベトナム戦争の終結から50年となる。そこで、ベトナム戦争に従軍したあるネイティヴ・アメリカンにまつわる物語を紹介したい。

 まずはこちらの標識を見ていただきたい。今福龍太著『クレオール主義』のなかの「バイリンガリズムの政治学」で言及された、三人の黒い人影が描かれた奇妙な道路標識である。筆者はこの標識を、通称リトルサイゴンと呼ばれるベトナム系アメリカ人コミュニティが位置するオレンジカウンティからサンディエゴへ向かうフリーウェイで目にしたことがある。

The immigration sign, depicted a man, woman, and girl with pigtails running (Wikimedia Commons)

 1986年、カリフォルニア州サンディエゴにおける、メキシコからアメリカに向かう越境者の逮捕者数は62万8000人に上り[i]、越境者の交通事故死が増加した。国境付近で100人が車に轢かれて死亡し、さらに密入国業者が移民を車から振り落とす地点で30人が死亡する事態となった。その対策として、在サンディエゴ・カリフォルニア交通局で、「移民飛び出し注意」の標識が作成された。1990年に設置されたこれらの標識は、これまで盗難や破壊の憂き目に遭い、また移民ルートがアリゾナやテキサスに移ったことで取り除かれ、今では一つしか残存していない(2017年時点)。

 この標識をデザインしたのは、サンディエゴの交通局で27年間働いてきたJohn Hood、59才である(2008年時点)。彼は、業務の担当者として、高速で走り過ぎるドライバーが判別しやすいシンプルなデザインを構想し、おさげの女の子を連れて全力疾走する家族のシルエットを描いた。

 Hoodは、ニューメキシコの隅に位置する標高7,000フィートの指定居留地で育ったナバホ族である。彼は、この標識のデザインを考える際、ナバホ族の両親がかつて彼に語って聞かせた、合州国兵士による指定居留地への強制移住から逃れようとして死んだ先祖の姿を思い浮かべたという。疾走する家族のシルエットには、たんにフリーウェイを横切る姿だけでなくある何かからの逃走、さらにはチャンスや自由獲得への種々の闘争の姿が内含されているとHoodは語る。

 Hoodは高校卒業後の1968年、海軍に志願し、ベトナムのダナンで兵役に従事した[ii]。1964年から1965年にかけて南ベトナム駐在大使であったマクスウェル・テイラー大将は、「ベトコン」(南ベトナム解放民族戦線兵士)をインディアンと呼び、ベトナム戦争はまさに現代のインディアン戦争そのものだった、とも指摘される[iii]。従軍したネイティヴ・アメリカンのなかには、ベトナムに先住民の歴史的境遇を重ね合わせ、次第に戦争に疑問を抱くようになった者もおり、1960年代から1970年代の先住民の権利回復運動には、多くのベトナム帰還兵が参加した[iv]

 Hoodがベトナムで実際に目にした、襲撃された村から命からがら走り逃げる家族の姿が、あの標識を描く際に彼の頭にあった。Hoodはベトナム戦争から帰還後、PTSDに苦しめられ、復員兵援護法により美術を学び、グラフィック・アーティストとして州交通局に雇われた。

 Hoodが描いた「移民飛び出し注意」の標識、すなわち中南米人家族の決死の逃避行の姿には、強制移住を拒むインディアン家族の決死の逃避行、そして村への侵略攻撃から死に物狂いで脱出を図るベトナム人家族が重ねられていた。あえてここでパロディーという言葉を持ち出すのであれば、彼の描いた中南米人家族それ自体が、インディアンの家族、あるいはベトナム人家族のパロディーとして捉えることができるであろう。興味深いことに、Hoodの標識デザインには数多くの他者によるパロディーが存在する。「その原因や背景について何も語らない標識」が、さまざまに語りはじめる。

 標識に描かれた当事者である中南米からの移住者たちは、この標識を前に何を思うのか。記事によれば、ある人は「動物飛び出し禁止」の標識を想起して屈辱をおぼえ、またべつの人は「決死の逃避行」をせざるを得ない家族の境遇に涙を流す。

 これまで、この標識のデザインから、多様なパロディーが産み出されてきた。反移民派たちは、走る三人の背後に銃を抱えた男を描き加え、何者かに狙われる家族をプリントしたTシャツを売り出した。また、ロサンゼルス発祥の地とされるオルヴェラ通りでは移民の誇りのシンボルとしてこの絵が用いられ、三人の家族がサーフボードを運ぶプリントを施した土産物は今も店頭に並んでいる。

 

 社会メッセージを織り込んだ風刺的なステンシルアートで知られる覆面芸術家バンクシーは、家族の父親の手に、風にたなびくカイトを描き加えた(BANKSY Kite-2)。このパロディーは、夢に向かって走る喜びに満ちた家族として解釈される一方、風に吹かれるままいったいどこにたどり着くかも分からぬ、不安な未来に向かう家族としても捉えられている。

 べつのパロディーでは、父親の頭にピルグリム・ハットが載せられ、ネイティヴ・アメリカンの許可を得ずにマサチューセッツに移り住んだメイフラワー号の乗客家族へと変身を遂げている。中南米からの移民が、最初の移住者、いわば〈アメリカ合州国の始祖〉と言われるピルグリムに置き換えられ、アメリカ人とは「だれもがピルグリム=だれもが移住者」であることが改めてさらけ出されている(Caution: Pilgrims, a.k.a. Illegal Immigrants)。

 

(ピルグリムの)その歴史には、自己犠牲、苦難と忍耐のはての傷だらけの達成、ささやかな、しかし高邁な出発、理想主義のもつ健気さ、など、だれにとっても共感をあたえうる要素が満ちあふれている。ことに移民の国アメリカでは、後に続く移民のだれもがピルグリムとある意味で類似した経緯を追体験してアメリカ人となっていったのだから[v]

 

 ピルグリムがひとに共感をあたえうるこれらの要素は、世界各地からアメリカの地を踏んだ移民全員が共有する要素と言えるであろう。翻って、ピルグリムの渡来以前からアメリカで生を営んできた先住民にとって、ピルグリム上陸の日は〈呪いの日〉である。

 

1620年12月22日を、暗き日としよう。あなた方の先祖が初めて足を踏みおろしたあの岩を埋めることによって、その日を祝福と演説から忘れさせよう。なぜなら、福音はすべての人びとにとって喜びの知らせであると言われているが、われわれ哀れなインディアンはその福音をもたらした人びとが慈愛の伝達者ではなく、まさにその正反対であったことを思い知ってきた。だから、12月22日は7月4日とならんで、喜びの日ではなく呪いの日であり、有色の人間はすべて喪に服さなければならない、とわれわれは言うのである[vi]

 

 インディアンの血を継ぐHoodは、ピルグリム・ファーザーズのパロディーとなった三人の家族をどのような思いで眺めたのだろうか。ミハイル・バフチンによれば、「あらゆるパロディーは意図的な対話化された混成物である。そこでは言語と文体が能動的に互いに照らし合って[vii]」おり、「作者は、文体模倣の場合と同様、他者の言葉で語っているのだが、文体模倣とちがって、この言葉のなかに、他者の志向と真っ向から対立する志向をもちこむ。他者の言葉のなかに移り住んだ第二の声は、ここでは、元の主と敵対的に衝突し、真っ向から対立する目的に仕えさせようとする[viii]」。残り最後の一つとなった標識を前に、Hoodは「目的に仕えてきた」と感慨を述べている。彼が描いた家族は、まさに多くの目的に仕えてきた。ドライバーに喚起をうながし、商品となって利益をもたらし、移民の誇りとなり、移住者の夢と不安を代弁し、そして、アメリカ人と言われる人間はほぼみんな移民であることをあらためて認識させた。

 

【参考記事】(最終閲覧はすべて2025年3月)

– The artist behind the iconic ‘running immigrants’ image, Los Angeles Times, April 4, 2008.

http://www.latimes.com/local/la-me-outthere4apr04-story.html

– With only one left, iconic yellow road sign showing running immigrants now borders on the extinct, Los Angeles Times, July 7, 2017.

http://www.latimes.com/local/california/la-me-immigrants-running-road-sign-20170614-htmlstory.html

– Banksy Transforms Migrant Road Sign into DREAM Crossing, Colorlines, Feb 22, 2011.

http://www.colorlines.com/articles/banksy-transforms-migrant-road-sign-dream-crossing

 

【脚注】

[i] 2016年の越境者の逮捕は3万1891人までに減少した。

[ii] 選抜徴兵制によって貧困層や有色人種のマイノリティの若者が多く戦地へ送り込まれ、先住民は約4万2000人以上が従軍したが、当時の全米のエスニック人口の割合からすると先住民兵士の割合は2倍以上にのぼった。反戦運動が広がったにもかかわらず、先住民の志願兵は白人や黒人の場合よりもはるかに多く、80〜90%が志願兵であった。志願兵の多くは父や祖父、兄弟などが第一次・第二次世界大戦や朝鮮戦争に従事しており、兵士であることが一族の伝統になっていた(内田綾子、「インディアンとアメリカの戦争」、『アメリカ先住民を知るための62章』、明石書店、2016年、p.105.)。

[iii] 白井洋子、『ベトナム戦争のアメリカ』、刀水書房、2006年、pp.91-92.

[iv] 内田綾子、「インディアンとアメリカの戦争」、pp.105-106.

[v] 大西直樹、『ピルグリム・ファーザーズという神話』、講談社、1998年、p.172.

[vi] William Apess, On Our Own Ground, The Complete Writings of William Apess, A Pequot, edit., Barry O’Connell, University of Massachusetts Press, 1992, p.286.(大西直樹、『ピルグリム・ファーザーズという神話』、pp.174-175.)

[vii] ミハイル・バフチン、「小説の言葉の前史より」、『小説の言葉』、伊東一郎訳、平凡社、1996年、p.350.

[viii] ミハイル・バフチン、『ドストエフスキーの創作の問題』、桑野隆訳、平凡社、2013年、pp.157-158.