特任准教授 永井正勝
一 旅の始まり
そうだ、過去の旅に出よう、と思ったのは以下の記事を読んだことによる。
U-PARL特任研究員 須永恵美子「過去を旅するガイドブック」2021年12月21日
https://u-parl.lib.u-tokyo.ac.jp/wp/japanese/column48
私は過去の言語(古代エジプト語)を研究していることもあり、「過去」という言葉にめっぽう弱く、須永研究員の紹介して下さったマレー社のガイドブック・シリーズ(Murray’s Handbooks for Travellers)に興味を持った。手に取ったのは、もちろん、本学総合図書館所蔵のエジプト編だ(図1)。
二 旅のお伴
1900年刊行の本書のタイトル(サブタイトルを除く)は、A handbook for Travellers in Lower and Upper Egypt『下エジプトと上エジプトの旅行者のためのハンドブック』である。旅行用のハンドブックだけあって文庫サイズとなっており、小さいな、というのが見た目の印象。
しかし、本書を手に取って開いたとたん、異なる印象を受けた。「細かな情報や地図が英語でびっしりと掲載されている」と須永氏が述べているように、凄まじい文章量だ。文庫サイズの小さい書籍だが、ぎっしりと実が詰まっているという感じ。
本文は2段組であり、索引まで含めた総ページ数は1006である。地図と図版は50ほどある。最初のセクションは、エジプトのパスポート、貨幣、度量衡、郵便事情、ホテル、気候、地理、宗教、産業、歴史、言語(ヒエログリフとアラビア語)など、ガイドブックに必須とも言える、国の概要が述べられている。この部分だけで161ページの分量。次のセクションより、都市や遺跡の紹介が、下エジプト(アレクサンドリア)から上エジプト方面(ヌビアや第二カタラクト)に向かってびっしりと綴られている。1900年の刊行時にエジプトの情報がこれだけ掲載されているのは、なんとも驚きである。
しかし、さらに驚いたのは、1900年刊行の本書が初版ではなく、10版であることだ。調べてみたところ、初版は1847年であり、そのタイトルはHand-book for Travellers in Egypt『エジプトの旅行者のためのハンドブック』となっていた。初版と10版とでタイトルが異なっていたので、さらに確認すると、初版と同じタイトルは1875年(5版)まで使用されており、1880年(6版)よりタイトルが変更されていた。
<エジプト編のタイトル(サブタイトルは省略)・出版年・版>
Hand-book for Travellers in Egypt.
1847年(初版)、1858年(新版:おそらく2版)WEB、1867年(新版:おそらく3版)PDF、1873年(4版)WEB、1875年(5版)PDF
A handbook for Travellers in Lower and Upper Egypt.
1880年(6版)PDF、1888年(7版)WEB、1891年(8版)、1896年(9版)、1900年(10版)
50年以上にもわたり増補改定が行われているのは、まさに老舗のなせるわざであるが、タイトルが変更されても版の連番を継続させるあたりが、なんとも大らかではある。
三 ルクソールのナイル川の昔
さて、本学所蔵の1900年(10版)をパラパラと見て気付いたことがある。ルクソールの西岸の地図(p.774の前に差し込まれた地図=図2a)と東岸の地図(p.829の後に差し込まれた地図=図2b)において、ナイル川にいくつかの中洲があるのだ(*地図をクリックすると画像が拡大します)。特に、カルナク神殿の対面あたりにある中洲が大きく、意外なことに、本流が中洲の西側を、支流が東側を通っている(図2b)。現在、ルクソールのそのあたりには大きな中洲がなく(図6)、ナイル川の様子が現在とは異なっていることが了解された。
これらの地図が本書の何版のものから採用されているのかはまだ調べがついていないのだが、すくなくとも1888年(7版)では使用されていないようである。
そこで、より古いものとして、1812年に刊行されたナポレオンのエジプト誌(La Description de l’Égypte)でルクソールの地図を確認してみたところ、こちらの地図にも中洲が描かれていた(図3)。
La Description de l’Égypte
Planches : Antiquités, t. II, Paris, 1812, PL 1
https://digi.ub.uni-heidelberg.de/diglit/jomard1812bd2_2_2/0043/image
どうやら、19世紀、ルクソールのナイル川には大きな中洲があり、西岸は現在よりもさらに西側に位置していたようだ。
では、いったい、どのタイミングで、現在のような姿になっていったのだろうか。それを確認するために、Old Maps Onlineを使って“Luxor”の地図を検索したところ、以下の地図(図4)が見つかった。
Old Maps Online
Luxor (Egypt)
Publisher: Survey of Egypt
1920
https://www.oldmapsonline.org/map/cuni/1173227
このWEBのView as overlayをクリックすると、現代地図の上に1920年の地図を重ねたものが表示される。右上のバーの水色の丸を左に移動させると、古い地図が透明になるので、比較が容易になる。
この地図が作成された当時のナイル川は、本流が東側に整理されるとともに、中洲が西側に拡張して、西側の支流がかなり細くなっている。その結果、もともとあった中洲が西岸の一部であるかのようになった。ちなみに、Old Maps Onlineにある1909年刊行の地図(リンクします)では、西側の支流の幅がもう少し広く、中洲はまだ中洲として西岸から独立しているように見える。この2枚の地図が、現代に連なる地形の変化を教えてくれる。
次に、Google Earthを使用して、1985年の衛星写真(図5)を確認してみると、図4で見られた支流が埋め立てられていることがわかる。支流が埋め立てられたのは、実際には1985年よりも前のことだと思うが、埋め立てにより、中洲だった場所がナイル川の西岸へと変化したことになる。つまり、現在、我々が「西岸」として目にしている船着場あたりの河岸の土地は、以前は中洲だったのだ。
さて、1985年の衛星写真をみると、埋め立てられた支流の東側に水路のようなものが見える(図5の矢印)。この水路のようなものもやがて埋まって行き、2021年の衛星写真では池のようになっている(図6の矢印)。この池のような場所に対して、Old Maps Online, Luxorの現代地図(図7)では「Old Nile」との呼称が与えられている。
気になって、ルクソール在住の@MeretsegerWasetさんにうかがってみたところ、この池のような場所は、現在、「運河」と呼ばれているそうだ。たしかに、図4でここは中洲の一部なので、これは人工的に作られた運河なのかもしれない。しかし、「Old Nile」という呼称はなんとも興味深い。
「運河」であるのか「Old Nile」であるのかはさておき、その東側がかつて中洲であったのは事実である。実際、@MeretsegerWasetさんによれば、「運河/Old Nile」の東側は、現在、「島」(ジャズィーラ/ゲジーラ)と呼ばれているとのことだ!まさにこの名称は、かつての中洲の名残である。
四 そして今
過去の旅に出た私は、いつの間にか、現代へと戻ってきてしまった。まるで、ブラタモリの番組のようなスッキリ感だ。しかし、ブラタモリと異なるのは、私はしょせん、過去から始まった机上の空論のなかで満足していることである。
このような状況のなか、親切なことに、@MeretsegerWasetさんが「運河/Old Nile」の現在(2022年1月1日)の様子を撮影して送ってきてくれた。
図7で、Old Nileの北に「Africa (レストラン)」があるが、そのあたりの場所は、現在では、埋め立てられており、ゴミが捨てられているとのこと(図8)。図7の「Gezira Garden Hotel」あたりまで南下すると、ようやく水が見えるようだが、周囲は完全にゴミ捨て場である(図9)。
図7にある「Old Nine」という呼称は、過去との繫りを連想させ、私をわくわくさせてくれるのだが、現在の姿は、埋め立てられ、ゴミが捨てられた、“夢の島”であった。なんだ、そんなものか、という思いがある。だが、今年こそは本当の旅に出て、現地のそんなもの、をたくさん見て回りたい。
January 18, 2022
謝辞
貴重な写真を提供して下さったばかりか、現地の情報をいつもリアルタイムで紹介して下さる@MeretsegerWasetさんに、記して感謝申し上げます。
追記
2021年11月21日にルーヴァン大学のチームが発表した記事によると、中部エジプトのアシュムネイン(ヘルモポリス)あたりでは、古王国時代、ナイルの流路が今よりも更に西側にあったとのことです。