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東京大学附属図書館アジア研究図書館
上廣倫理財団寄付研究部門
Uehiro Project for the Asian Research Library

COLUMN

ギリシア文字で表記されたイラン語

特任研究員 宮本亮一

先月,私が書いたとても短いコラムが『月刊みんぱく』に掲載され,今月1日にはウェブ上に公開されました。これは,今のアフガニスタン北部,ウズベキスタン南部,タジキスタン南部で,古くはトハーリスターン(トハリスターン/トカリスターンなどとも言う)と呼ばれていた地域で使用されていたイラン系の言語,バクトリア語の命名にまつわる経緯をごく簡単に説明したものでした。ただ,そのコラムでは,紙幅の都合上,参考文献を挙げたり,この言語の特徴を解説したりすることはできませんでした。そこで今回のコラムでは,先月発表されたコラムの補遺として,バクトリア語の特徴を簡単に解説してみたいと思います。なお,私は以前にも似た内容の小文を書いていますので,本コラムに興味を持たれた方は併せてご覧下さい。

バクトリア語の文書(龍谷ミュージアム所蔵)

『月刊みんぱく』のコラムで取り上げたのは,「トハーリスターン」の言葉がどうして「バクトリア」語と呼ばれたのか,という問題で,そこにはインド・ヨーロッパ語族に属するトカラ(トハラ)語という言語の命名との深い関わりがありました。本コラムではこの問題について改めて解説しませんが,命名の問題も含め,トカラ語にまつわる様々な話題に興味がある方には,日本語で読める文章として,風間喜代三「トカラ語の話(16)」(『言語33/7-122004年)をお勧めします。

バクトリア語は,インド・ヨーロッパ語族,イラン語派,東方言に分類される中期語で,現存する資料からは,2世紀初頭から9世紀後半まで使用されていたことが知られています。印欧語に属するので,私たちにも馴染み深い英語などとは遠い親戚にあたる言語です。よく取り上げられる事例ですが,親族名称は言語の関係を示す大きな指標の1つで,バクトリア語では「母」をμαδο(mado),「兄弟」をβραδο(brado)といいますが,英語のmotherbrotherと似ていることがわかります。

この言語の最大の特徴は,ギリシア文字を用いて表記している点です。これは,アケメネス朝ペルシア(前64世紀)を滅ぼした,有名なアレクサンドロス大王(在:前336323年)の東方遠征の結果,イランや中央ユーラシアの一部がその支配下に組み込まれたことに起因します。また,ギリシア語にはないšという音を表すための文字・ショー(Ϸ/ϸ)が存在するのもこの言語で用いられるギリシア文字の特徴です。13世紀にトハーリスターンからインド北部を支配したクシャーン朝には,カニシュカ(κανηϸκο/kanēshko),フヴィシュカ(οοηϸκο/ooēshko),ヴァシシュカ(βαζηϸκο/bazēshko)など,この文字を含む王の名前が多く見られます。

中期イラン語のおよその分布

中期イラン語には,バクトリア語のほかに,中期ペルシア語,パルティア語,コレズム語,ソグド語,コータン語,トゥムシュク語という6つの言語がありますが,ギリシア文字を使用するバクトリア語,そしてインド系のブラーフミー文字を使用するコータン語とトゥムシュク語以外は,アラム文字に由来する文字で表記されました(ただし,これらの言語にはアラム文字系以外の文字で表記されている資料もたくさん存在します)。これは,これら4つの言語が話されていた地域がアケメネス朝の支配下にあり,王朝の公用語がアラム語であったことに由来します。トハーリスターンもアケメネス朝の統治下にありましたが,この場所ではアラム語での現地語表記が定着しませんでしたから,アレクサンドロス以降のギリシア人支配の影響がどれほど強力であったかがわかります。実際,この地にはギリシア人の入植地がありました。残念ながら戦時下の略奪で荒れ果ててしまいましたが,アフガニスタン北東部のアイ・ハヌム遺跡は最も有名なものの1つです。

ちなみに,アラム系文字を使用する4つの中期イラン語に共通する特徴として,アラム語の単語を用い,それを訓読みする現象(heterogram)が挙げられます。例えば,ソグド文字で表記されたソグド語文献では,「王・支配者」のことを,ソグド語の’xšyδではなく,アラム語のMLK’で表記することがありますが,この場合もソグド語の発音で読んでいたと考えられています。中世イラン語の事例も含め,世界中の言語に見える訓読み表記に関心のある方は,春田晴郎「世界の訓読み表記」(『東海大学紀要:文学部』862006年)をご覧下さい。

さて,バクトリア語の表記に用いられたギリシア文字は時代と共に草書化しました。どのような文字でもそうですが,草書体は非常に読みづらいもので,ギリシア文字も例外ではありません。例えば,最近はすっかり耳馴染みのある単語になりましたが,アルファ(Α/α),デルタ(Δ/δ),オミクロン(Ο/ο)という3つの文字の草書体は単なる丸印で表記されます。これらは外見上,見分けがつきませんが,オミクロンだけは後続する文字と続け書きされないので,判別することができます。バクトリア語で「そして」を意味する接続詞οδο(odo)が草書体で書かれると,丸が3つ並びますが,最初の1つは独立し,後ろの2つが眼鏡のようにひっついた形になります。なお文字の形には,トハーリスターンの中での地方的な特徴があったという指摘もあります。

バクトリア語の名詞は,単数と複数の区別はありますが,男性・女性といった性,そして格の区別がほとんど失われており,古い時代の資料でわずかに判別できるだけです。ロシア語やサンスクリット語を学習したことがある方ならおわかり頂けると思いますが,初学者にとって,複雑な格語尾を覚えるのはとても大変なことです。バクトリア語では格変化を覚える必要がほとんどないので,その点は楽といえるかもしれません。

もちろんバクトリア語には,他の言語と同じように,冠詞,代名詞,関係詞,前置詞,接続詞がありますし,形容詞と副詞には,比較級と最上級の形も知られています。ちなみに,古い時代の資料では冠詞に性・数の区別がありました。

動詞は,他の中期イラン語と同様,現在語幹と過去語幹から形成されます。例えば,「〜を送る」という動詞は,現在語幹がφοϸτιι-(foshtii),過去語幹がφοϸταδο(foshtado)で,そこに人称語尾が伴います。ちなみに,近世ペルシア語で同じ意味を持つ動詞の過去語幹はferestādなので,両者が同じ系統の言語に属していることがよくわかります。バクトリア語では,事実を表現する直説法(現在・過去)のほかに,想定される事項などを示す接続法(現在・過去)や希求法(現在・過去),命令法,さらにInjunctiveという珍しい法(mood)もあります。英語では,話し手の判断を示す場合,shouldmaywouldのような助動詞を用いて表現しますが,バクトリア語の場合は動詞の活用でこれを示しました。フランス語やドイツ語を学習した方なら,接続法の形が思い浮かぶでしょう。最近では,他動詞の目的語を示す指標を,それが人であるか物であるかで使い分ける示差的目的語標示(Differential Object Marking)の研究も発表されています。

バクトリア語はまだまだ研究の途上にある言語で,例えば,接続法と希求法の使い分け方や冠詞が付される条件など,判明していないことがたくさんあります。敬語の表し方などもまだ研究されていません。まとまった数の資料が発見され,この言語に対する理解が急激に進展したのが,たかだかここ20年ほどのことであることを考えると,これは当然といえるでしょう。しかも,この20年間の研究は全て,Nicholas Sims-Williamsというたった1人のイラン語学者よって行われたものであるという驚くべき状況で,これからの研究は彼の研究成果の改定という形で進むことになるでしょう。私自身は言語学者の研究成果を利用して歴史を研究する人間で,言語そのものに対する理解の深化に貢献することはほぼ不可能なので,バクトリア語やその他の中期イラン語に関心を抱き,研究してみようと思う若い人が日本に現れることを期待したいと思います。

最後にいくつかの参考文献を挙げておきましょう。日本語で読めるバクトリア語の概説・解説には次のものがあります。なかには古いものも含まれていますが,いずれも知的好奇心を満たしてくれる素晴らしい文章ばかりです。

熊本 裕「イラン学の現段階:古,中期イラン語研究案内」『IBU四天王寺国際仏教大学文学部紀要』16,1983年,pp. 27-102(特にpp. 63-64)

吉田 豊「バクトリア語」『言語学大辞典』3,三省堂,1992年,pp. 111-115

ニコラス・シムズ=ウィリアムズ(熊本裕:訳)「古代アフガニスタンにおける新知見」『ORIENTE』16,1997年,pp. 3-17(この文章はこちらでも公開されています)

吉田 豊「バクトリア語文書研究の近況と課題」『内陸アジア言語の研究』282013年,pp. 39-65

『言語学大辞典』には,バクトリア語以外にも,中期ペルシア語,パルティア語,コレズム語,ソグド語,(コータン・)サカ語といった中期イラン語の項目があります。また,『言語学大辞典』の別巻にあたる『世界文字辞典』には,「アラム文字」「パフラヴィー文字」「パルティア文字」「ソグド文字」などの詳しい解説もあります。英語ですが,次の書籍にはバクトリア語以外の中期イラン語の文字・文法・資料などについて,研究の第一人者たちによる詳しい解説があります。興味を持たれた方は是非ご覧下さい。

Windfuhr, G. (ed.) The Iranian Languages, London: Routledge, 2009.

May 10, 2022