特任研究員 須永恵美子
ある職業特有の癖のようなもの、「職業病」や「職業あるある」と言われる行動は様々かと思います。図書館に勤めていると、プライベートでも本の並び順や本棚の乱れが気になったり、書店勤めなら段ボールやシュリンクの開封が多いので、カッターの使い方がうまい、というのも挙げられるでしょうか。
筆者(須永)はイスラームの研究をしていますので、輸入食品のパッケージのアラビア文字や、観光地でヒジャーブを着たムスリム女性がすぐ目に入ります。冬には石焼き芋のトラックの声を、アザーン(モスクから流れる礼拝の呼びかけ)に空耳するというのも毎年のことです。そんな私が、最近気になって仕方ないのが日本の街中でみかける看板です。
—God
—Faith
—Meccca
訳すならば、神、信仰、マッカでしょうか。宗教施設ではありません。実はこれ、理容室・美容室の店名なのです。
一軒一軒は(おそらく)宗教的な意味はなく、神の手をもつカリスマ美容師や、信念のあるカット、美容業界のメッカ(中心)のような意味かと推測します。イスラームと関係ないとはわかっていても、ついつい研究と結びつけて反応してしまいます。
筆者がフィールドとするパキスタンの床屋ではどんな看板が掲げられているかと言いますと、理容室なら地名やちょっと洒落た言葉遊び、美容室では美しい花や女性の名前などが多いかと思います。イスラームの聖地である「マッカ」や「マディーナ」も、職種によらず様々な業態で好まれる名前です。さすがに「神」と名付けられた理容室は見かけたことがありませんが…。
カラチにある美容室MahRose(薔薇の恋人)の外観。看板の女性は重要なビジネスである婚礼用メイクアップを施されている。すぐ左の黒い看板は男性向けの理容室。男性スタッフによってエステやネイルケアを受けることができる。看板がアラビア文字ではなくローマ字で書かれているのは、パキスタンでは一般的な商慣習
パキスタンの美容室は女性客限定で、スタッフも女性が多く、外から見られないように目張りが施されています。最近では、ネイルサロンやエステを併設した高級志向の美容室(Salon/Beauty parlor)が次々にオープンしています。人気店のカリスマ美容師は引っ張りだこで、結婚式シーズンにはあちこちの花嫁の家に出張してメイクアップ・へアドレスを請け負います。
一昔前なら、バックパッカーでインドやパキスタンを訪れた旅行者が、勇気をもって路上の床屋で髪を切ってもらったところ、真っすぐ散切りにカットされてしまった…などという武勇伝が聞かれたものでした。こうした伝統的な路上の床屋は農村でも少なくなっており、都市部では店舗を持った理髪店・美容室が一般的です。
伝統的に、南アジアの床屋はウルドゥー語/ヒンディー語でナーイーと呼ばれ、髪を切り、髭を整え、頭皮マッサージまでがセットになっています。インドにおいては、調髪に加えて爪切り、各種儀礼における宴の手配や結婚式・葬式、助産、新生児の世話など出番の多いカーストの一つです。お得意さんの家々を廻ってサービスを施すので、村のメッセンジャーのような役割も兼ねています。
パキスタンを含めたムスリム社会では、床屋が子どもが生まれた時の剃髪や割礼を請け負い、結婚式や葬式を取り仕切るなど人生儀礼における重要な役割を担っていることが特徴です。
話があちこちへ飛んでしまいましたが、最後に本の紹介を。パキスタンやインドから少し西に行き、オスマン朝期の床屋について興味深い本が出ています。高名な学者や書記官と異なり、名前の残りにくい職業である理髪師が、町の歴史を書き残していたというものです。
The barber of Damascus : nouveau literacy in the eighteenth-century Ottoman Levant / Dana Sajdi(ダマスカスの理髪師)
こちらはアジア研究図書館に配架されていますので、新年の一冊にいかがでしょうか。
January 6 , 2023