特任准教授 永井正勝
“あらゆる言語で表現可能なもののいっさいを含んでいると推論した。いっさいとは、未来の詳細な歴史、熾天使らの自伝、図書館の信頼すべきカタログ、何千何万もの虚偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の証明、真実のカタログの虚偽性の証明、バシリデスのグノーシスの福音書、この福音書の註解、この福音書の註解の註解、あなたの死の真実の記述、それぞれの本のあらゆる言語への記述、それぞれの本のあらゆる言語への翻訳、それぞれの本のあらゆる本のなかへの挿入、などである” (ボルヘス「バベルの図書館」)
文学を研究している知人からアルゼンチンの作家ボルヘスの存在を教えてもらい、「バベルの図書館」を読んでみた。私は、この先鋭的な作家の存在についてそれまで知らなかったのであるが、一読後、ボルヘスの作品に強い関心を抱いた。私は言語学者であり、文学者ではないが、自分なりに読み取った「バベルの図書館」のメッセージを、メモとして記しておきたい。
「バベルの図書館」は、“昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました”というような古風な物語としての文体ではなく、いわば論説体で書かれている。とりわけ、冒頭で展開されている図書館や書架の構造に関する記述はすこぶる詳細であり、そのため、「バベルの図書館」が実存するかのような印象を読者に与える。実際、バベルの図書館を再現したWEBサイト(https://libraryofbabel.info)が作成されているほどである。
論説体であるのに加え、「バベルの図書館」には文末註が付されている。この、註を伴う論説体の文章により、読者はボルヘスの書いた物語に真実性を感じることになる。しかし、それは、ボルヘスによる巧みな演出である。
おそらく、ボルヘスにとって重要なのは、言葉の真実性という安定した方向性ではなく、書かれたもの(=作品)と書いた者(=作者)との間の距離感あるいは書かれたものに対する作者の虚無感なのではなかろうか。言葉に対する安定しない精神性を私は感じる。ボルヘスは言う。
“いっさいがすでに書かれているという確信は、われわれを無に、あるいは幻に化してしまう”
作家は文章を紡ぎ出すわけだが、作家の書く文章とて、すでにどこかで誰かが書いたもの/語ったもの、の再生産でしかない。そこに、作品に対する作者の虚無感が生じる。作品に対する作者のオリジナリティは、よくいえば書かれたものの総体にあるのだろうが、ボルヘスは、それすら認めないのかもしれない。
ボルヘスの感じている書かれたものに対する作者の虚無感は、真実と虚構との境界の曖昧性あるいは言葉の真実性に対する不信感へとつながる。
それを示す一例が、図書館の象徴とも言えるカタログ(目録)に対する記述である。図書館において、書物の存在を体系的に示す拠りどころはカタログにあるわけだが、ボルヘスは、“図書館の信頼すべきカタログ、何千何万もの虚偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の証明、真実のカタログの虚偽性の証明”という表現を用いて、カタログという書かれたものと真実との間の埋め難い距離感をあぶり出す。
書物の存在を正確に記述しようとして作成されるカタログについて、その虚偽性を示す上記の記述は、神に近づこうとしてバベルの塔を築いた人間の愚行を彷彿とさせる。バベルの塔を作った人々の言葉が互いに通じなくなってしまったように、バベルの図書館に住まう人々による、書かれたものの真実性を追求しようとする行為の結果は、”生涯”の”浪費”なのかもしれない。
さて、「バベルの図書館」は、ボルヘスという作家の書いた小説である。ところが、この小説において、「バベルの図書館」というのは、マル・デル・プラタなる人物の記した書簡だとされている。しかも、その書簡は“無数の六角形のひとつの五段の棚の三十冊中に存在している”。つまり、「バベルの図書館」という書簡は、バベルの図書館に所蔵されているのだ。
バベルの図書館に関する精細な記述から始まるこの論説体に対して、私は、ボルヘスによる説明文であるかのような錯覚を覚えながら読んでいたが、最終的に判明したのは、これがマル・デル・プラタによる書簡であるという事実である。しかも、その書簡は、語っている対象であるはずのバベルの図書館にすでに所蔵されている。映画「インセプション」のように、次元に対する軽い錯覚を生じさせる。
書かれたものに対する作者の虚無感や言葉の真実性に対する不信感という複数の次元、さらには時に軽い錯覚を生じさせるような異なる現在の次元、を巧に描きつつ、全体として真実性が醸しだされた本作品に、私は一読して魅了された次第である。
なお、「バベルの図書館」は、J.L.ボルヘス作『伝奇集』岩波文庫に所収されているものを使用した。
June 30, 2023