特任研究員 荒木達雄
パンダのイベントをやる。
パンダのイベントに参加したことはあるが主催するのははじめてである。企画したころは楽しみばかりであったのだが、近づいてくるにつれ緊張と不安が増していく。いま(4日前)は不安と緊張が90%まで達している。当日は100%になっているだろう。
いまでは多くの人が信じてくれないが、昔から人見知りで上がり症である。いまでも人前で話す直前は動悸が激しくなるし、人数が多い時には足が震える。声が大きいのも、やたらと饒舌にベラベラしゃべるのも、無駄に動作が大きいのもすべて緊張隠しである。だから毎回、いったいなにをしゃべったのかほとんど覚えていない。
そんな人前に出るのがそもそも向いていないものがなぜパンダイベントをやろうと思ったのか。パンダが好きだからである。そういえば、いつからパンダに興味があったのだっけ、とふと思った。
正直、あまり覚えていない。むかしのことを故意に考えないようにしていたら本当に忘れてしまったらしい。
15歳で中国語をかじりはじめて、自分の名の中国語よみがちょっとパンダに似ていると思い親しみを覚えたこと、将来中国に留学したら“潘達”という中国語名を名乗るんだーなどと言っていた記憶がうっすらある。
(※“潘達”は中国語で“パン、ダァ↑”のような音)
ちなみにこの時まで本物のパンダを見たことはない。すでに上野にパンダはいたのだが、東京は近くて遠い。小学生のころ一度、父に連れられて上野へ行ったことがあるのだが、それは父が「科学博物館の干し首を見せてやる」と言ったからである。干し首は思っていたよりだいぶ小さかった。人は死ぬとこんなにも小さくなるものかと思った。私にとって動物園とは多摩動物公園と羽村町動物園(その後羽村市動物園となり、現在はヒノトントンZOOというらしい)であった。前者は何度も行っている。後者は一度しか行っていないはずなのに妙に覚えている。
そんなパンダに親しみを覚えつつパンダに会えない状態のまま大学に進み、あたりまえのように中国語を選択した。というよりも、「中国語をやって中国留学するために大学に入る」と宣言していた。
初のパンダ拝謁は1999年だった。アルバイトでためたお金で北京2週間中国語短期コースに参加した。北京動物園でもらったリーフレットの表紙はもちろんパンダ。横向きにすわり、タイヤを抱え、顔をこちらに向けて満面の笑みを浮かべている。おお…これがパンダ…とわくわくしながら向かうと、部屋の奥のほうに灰色の背中をこちらに向けてごろんと寝ている動物がかすかに見える。微動だにしない。え?あの営業スマイルを爆発させていたのと同一熊ですか?わたしの初パンダはこれで終わった。ご尊顔を拝することのかなわぬ地下であった。はやく殿上人になりたい。
この北京旅行でわかったのは、日常を離れたほうが人見知りと緊張しいが多少軽減されること、中国にいるほうがなぜか体調がよいこと(当時北京は工場煤煙と黄砂とで大気汚染が激しく、喘息持ちのわたしが北京へ行くことに母は賛同しかねるようであった)、そして実は自分は酒が飲める体質であったことだ。大学に入ってからも自分は酒があまり飲めないと思っていたのだが、北京のアルコール56度の白酒(二鍋頭)にすっかりリミッターを外されてしまった。これ以降、人付き合いで失敗するのもお金が貯められないのもすべて99年の北京のせいだということにしている。
次のパンダはさらにとんで2004年である。こんなことだから御目見え以下のままなのであろう。しかし、ノートの余白や紙の隅にしょっちゅうパンダの絵をかいていたような気はする。お目にかかれぬならばせめて絵姿で…ということだろうか。
2003年から中国は南京に留学していた。この期間、少し、いや、かなり熊に浮気していた。私の名は留学生には発音しにくいらしく、よく「達雄」が「大雄」になる。「大雄」は、中国語版ドラえもんではのび太君のことである。そのつもりではないとはいえ毎日「おーい、のび太!」と言われているとなにかよからぬことが起きそうな気がして不吉だし、なによりドラえもんはついて来ない。そこで、「大雄ではなく大熊ですよ」キャンペーンを張ることにした。「雄」と「熊」は中国語でも同音なのである。サインは「熊」、人に渡すちょっとしたメモの端にも必ず熊のイラストを添えた。そのうち中国人も私を「熊」と認識するようになった。
とはいえ、パンダを忘れたわけではない。いきつけの大衆食堂にいた猫を抱いては、「大熊と猫で大熊猫!」などとはしゃいでいた。当時はパンダの部品、一構成要素だったのである。留学生寮の部屋でDVDを見たいねということになり、再生機を買いに行った時には迷わず熊猫電子を選んだ。スクリーンセーバーになると「PANDA」の5文字が色合いを変化させながら画面上をふらふら飛び回る。DVDよりもそちらをよく眺めていたかもしれない。このプレーヤーが故障して、色が出なくなってしまったことがある。修理してくれるところへ行き、「パンダだけに白黒になってしまいました」と言ったがうけなかった。それはそうだろう。
2004年夏、留学生仲間が成都旅行に行こうと誘ってくれた。人見知りと単独行動とをもって知られる私をなぜ誘ってくれたのかはよくわからない。四川といえばパンダ、一日はパンダの日を入れてくれと頼み認めてもらったので張り切って旅行の準備をした。
夜行列車の切符の発売日に窓口に並び、まず行き帰りの足を確保。パンダ基地のうち成都市内から日帰りで行けるところに目をつけ、そこへ行く日を確定する。世界遺産の九寨溝・黄龍へは絶対行きたいと言われていたが、さすがにそれはイチ留学生には高難度だ。南京市内の中国旅行社に飛び込み、ツアーがないか尋ねた。それはもちろんある。しかし、行きたいのはそこだけではなし、もう往復の汽車も押さえている。南京発着のツアーではなく、成都発着のツアーがいい。現地に行ってから申し込むのは面倒だからここで申し込みをさせてくれ、金は現地で払う、と、南京支社にはまったくうまみのない要求をしたのだが、その通り対応してくれた。
成都のパンダ基地は旅行の3日目に行った。臥龍や雅安のような本格的な野生復帰の施設ではない。しかし、北京動物園の記憶が残っている私にとっては衝撃だった。パンダがこちらを向いてヒトのようにどっしりすわりむしゃむしゃ竹を食っている。仔パンダが元気に走り回っている。斜面を滑り落ちてしまった仔パンダが上に戻ろうと上るが途中で力尽きまた滑り落ちてしまう。滑り落ちるたびに観光客から「アイヤー」と声があがり、「がんばれ、がんばれ、仔パンダ!」とみんなの心が一つになった瞬間、子パンダはあきらめて斜面の下で落ちていた笹を食べはじめる…。なにもかもが新鮮であった。基地の出口近くでは「おかえりなさい雄浜」式典の準備が着々と進んでいた。パンダの「国籍」は確かに中国なのだが、日本生まれの雄浜も「おかえりなさい」なのか…。
パンダ基地で心を奪われ、九寨溝・黄龍の奇観を味わい、麻婆豆腐と棒棒鶏を堪能し、成都楽しかったなあと満足しかけたが、そういえば自分は中国古典文学専攻の大学院生だった、と思い出し、慌てて杜甫草堂と諸葛孔明を祀る武侯祠と三星堆遺跡と茶芸と変臉を見に行ったりもした。
このころからパンダ熱はさらにあがった。
パンダの掲載された雑誌や新聞があれば即座に買った。
すると新聞で、南京の紅山動物園にパンダが貸し出されるというニュースを目にした。当時南京にパンダはいなかったのである。早速、「南京にパンダが来るぞ」と触れ回った。幸い数人が乗ってくれたので、休みの日の朝、張り切って早起きしてパンダおにぎりを人数分作って見に行った。海苔をパンダの模様の形にして貼り付けただけの単純なものだが。南京にやってきたパンダはわれわれの目の前をゆっくり歩き回ってくれた。
2005年夏、南京を離れることになった。留学生対象の中国語クラスで期末テストとして一人づつスピーチをせよという課題が出た。せっかくなので、買い集めた雑誌と新聞とを読みこんでパンダについて話すことにした。内容はたしか、パンダの保護、繁殖と野生復帰訓練についてであった。「パンダはむかし獏と呼ばれていた」という記事を初めて読んだのもこの発表の準備の時であったと思う。
迂闊であった。繰り返すが自分は中国古典文学専攻の大学院生だったのである。普段から古い文献を探したり読んだりしているはずなのに、なぜ「むかしの文献にパンダは書かれているのか」という疑問に行き着かなかったのか。無意識に趣味と勉強とを分けてしまっていたらしい。急いで調べてみると確かにそれらしき記載がある。おもしろいとは思ったが、間に合わなかったし、聞き手は別に中国語の古文や古い文献に興味があるわけでもないので、スピーチには入れなかった。
日本に戻り、大学院に復学すると、こんどは中国から招いた先生による中国語の論文指導の授業があった。早速順番が回って来た。持ちネタも少なかったので、あの、調べかけて途中になっていた「古文献のパンダ」のつづきをやってみることにした。短期間でたいして調べられなかったが、数千字程度のレポートなのでなんとか書き上げた。もっとも、あくまで「中国語でレポートを書く」練習なので、重要なのは中国語能力の向上であり内容ではなかった。ところが、いつのまにやら、慢性的原稿不足に悩んでいた研究室の紀要に載せようという話になった。どうしてそうなったのかはさっぱり覚えていない。とはいえ、内輪のレポートではなく、まがりなりとも外部に向けて公開されるものなので、それなりには力を入れた。しかし、もともとの専門でもなく、慣れない文献を手あたり次第ひっくりかえしているだけなのでさほどできのよいものにはならなかった。いまでもネット上で批判されているらしい。怖いからあまり見ない。
直接頂戴したご意見もあった。年に1~2回お会いする他校の先生からは「あんなもん出すと今後ずっとイロモノだと思われるぞ」と言われた。すでにイロモノの自覚はあったのでこれはあまり傷つかなかった。
それから16年、出張から戻る新幹線でうっかり仕事のメールボックスを開けてしまった。そこに「パンダのことでちょっと取材をしたい」という連絡が来ていた。わけがわからなかった。確かにパンダは好きである。だが個人の趣味でしかない。なぜジャーナリストの方が知っているのか。あとで聞いてみると、家永真幸先生が、あのレポートに毛の生えた程度の私の文章を参考文献に挙げてくださり、それをご覧になって私の名を知ったのだという。
先生、イロモンがついに仕事になりましたよ。世の中、なにが起こるかわかったものではない。
こうつらつら書き連ねてみると非常に半端だなあと思う。
むかしは知らなかったが、最近はインターネット上で世界中のパンダファンの様子を知ることができる。こうした方々に比べると私のパンダ好きなど、行動力の面でも知識の面でもお金のつぎ込み方の面でも足元にも及ばない。
学問的にパンダを深く調べているかといえばそれもそうではない。専門外の方より中国の古い文献を調べたり読んだりする経験を多少は積んでいるからパンダも調べてみたというだけのことである。
こんどのイベントは、家永真幸先生にインタビューをしてみたい、対談をしてみたいというところからはじまった。対談するには私では役者不足ではないかと思っていたら、人づてに藤岡みなみさんという大物に登壇をお願いすることができた。言うまでもなく、藤岡さんのパンダへの愛やパンダの知識は人並みではなく、家永先生はまさにご専門の研究のなかでパンダの話題を長年扱っていらっしゃるプロである。お二人のお話がおもしろいのは間違いない。
どう考えても間にいる私だけが素人である。お二人の間でおろおろするしかなさそうだ。
いまからでも客席にすわって見る側になろうかな。
20 Oct. 2023