二松学舎大学教授
戸内俊介
『古漢語通論』(以下、本書)の初版は1962年、もとになったのは、蔣礼鴻氏が杭州大学で行った講義である。この時代は、例えば、王力の『中国語言学史』(1962年、北京大学での講義)など、中国語学の第一人者が大学で行った講義をもとにした概説書が出版され、後の古代中国語学史の著述に影響を与えた特記すべき時期である。
1949年に中華人民共和国が成立すると、政府はまず学校文法の制定に着手し、1956年頃には学校文法が定まった。現代語研究については、西洋の文法体系の摸倣から独自の体系の模索へと向かった時期であり、古代語研究については、経学のもとで「小学」と位置づけられた、テキストに依存したことばとの個別的な関わりを、文字学、訓詁学、音韻学を主軸とする通史的な視座からの記述がなされるようになった時期であった。本書はその嚆矢であり、小学を講ずる者は多かれ少なかれ本書の記述に依拠し、同時に小学を繙く徒にとっても善き指南書となっている。
特に学ぶべき点は、現代の我々がややもすると陥りがちな、現代中国語と古代中国語、文言(書き言葉)と白話(話し言葉)、語学と文学を断絶したものとして峻別し、テリトリーを線引きする傾向に対し、これらを分かちがたいものとして連続性の中でとらえ、中国語という言語のありようを包括的に説く姿勢である。いま一度、中国語という言語によって構築された豊かな世界を望み見る先達として得がたい書である。
一例を挙げれば、今日、慣習として「字書」と呼ぶ一群の書を「形系字書」、「義書」を「義系辞書」、「韻書」を「音系辞書」と呼び為し、いずれのタイプも結局は「字義」を記述せざるを得ないことから、煎じ詰めれば辞書の役割は釈義であると結論する。このような柔軟な発想とその言語化は分類することに慣れている我々にとって示唆的である。
本書は全編20章からなり、古代漢語の全体像が分かるように、文字、訓詁、音韻を柱とし、語彙(文字)という単位を重視した独自の工夫で構成されている。以下、本書の目次である。
目次
まえがき
再版の説明
第一章 序説
1.古代中国語とは何か
2.古代中国語と現代中国語
3.古代中国語を学ぶ目的と目標
4.古代中国語を学ぶ方法
第二章 漢字の形義についての概説、辞書について
1.文字の形(字形)、音(字音)、義(字義)
2.漢字の構造
3.本字と本義及び本義の解明
4.本義と引申義
5.仮借字と異体字
6.古今字
7.辞書
第三章 訓詁学における「義存於声」と「声近義通」
1.「義存於声」と「声近義通」
2.「声近義通」の考え方 分別文と右文説
3.連綿語
第四章 語義の解釈
1.語義解釈の注意点
2.数詞の特殊な用法 普通名詞と固有名詞 忌み言葉と婉曲表現 比喩義 偏義複合語 典拠のある言葉
第五章 文
1.文の組み立て方
2.長い文と短い文 句読
3.句
第六章 判断文と叙述文
1.判断文
.叙述文
第七章 品詞の兼類
1.古代漢語の品詞
2.品詞の兼類の法則
3.使動用法と意動用法
第八章 助字と接辞
1.助字
2.接辞
第九章 人称代名詞と指示代名詞
1.人称代名詞
2.指示代名詞
第十章 省略と語順
1.省略
2.語順
第十一章 平叙文、感嘆文、疑問文、命令文
1.平叙文
2.感嘆文
3.疑問文
4.命令文
第十二章 数量と比較
1.定数と概数
2.名量詞と動量詞
3.比較
第十三章 複文と接続詞
1.複文の例
2.接続詞の用法
第十四章 声母、韻母、声調
1.音韻変化と音韻論
2.反切
3.声調
第十五章 韻書と等韻
1.声類と韻類、字母と韻摂
2.等呼
3.韻書と等韻図
第十六章 古代音
1.上古音と中古音
2.上古音の韻類
3.上古音の声類
4.上古音の声調
第十七章 韻律
1.押韻と対句
2.古体詩の押韻
3.六朝韻律論と近体詩
4.詞律と詞韻
5.曲律と曲韻
第十八章 古典文学作品の修辞
1.意匠と素材
2.構造に関するもの―対偶・反復・倒置
3.音韻に関するもの―押韻・双声・畳韻・重言・節奏
第十九章 目録学の常識
.目録学
2.七略と四部
3.注疏と箋注
4.叢書と類書
5.古典籍の構成
第二十章 古典の特殊な文体
1.倒置
2.省略
3.同義字の重複
4.異文互義・挿入語
付録
本書は古代中国語研究の神髄である訓詁を基底とし、段玉裁、王念孫、王引之ら清朝考證学の「義在於音」〔字義は字音にある〕、「因声求義」〔字義を知るために字音を手掛かりにする〕という考え方を重視し、訓詁学を現代の語彙研究の流れに組み込んでいる点、語学の概説書でありながら言語と不可分な文学への目配りがある点など、他の古代中国語の教科書とは異なる視野を持って執筆されている。この点が、知識として古代中国語の基礎を記述する概説書との違いと言える。
また、漢字に対しても、文字は言語を表記するものであるという視点から、文字論にも繋がり得る見解を提示しており、漢字の構成や成り立ちを中心に解説する文字学的視点だけに留まらない点、一般の概説書とは大きく異なる。
文法の方面では、一般の古代中国語の概説書は、上古中国語を対象とすることが多いが、本書は中古中国語や近代中国語の研究成果を取り入れつつ、古代中国語と現代中国語の歴史的な繋がりを常に念頭に置いて講じている。また、形態論(morphology)や統語論(syntax)に分けて文法を全面的に記述するのではなく、現代中国語と異なる文法的問題を提示し、また形態論を統語論に結び付けて論じる。このほか、不必要な重複を省きつつ、どこが重要で、どこが難解かを学習者に分かりやすく提示している。
以上を要するに、本書の内容は、上古中国語のみならず、中古中国語の知識を中心として、言語との関わりという視座から文字学、訓詁学、音韻学、修辞学、目録学に言及しつつ、同時に語学を閉じた学問領域とするのではなく、言語によって構築されている文学と不可分なものとする。このように、語学の概論書でありながら文学との接点となる修辞などについて章を設けて論じている点、独創的である。
本書は初版後、1984年に浙江教育出版社より蔣礼鴻氏、任銘善氏の共著として刊行され、2001年に同出版社の『蔣礼鴻集』全6巻の第5巻に収められた。さらに2016年には浙江大学出版社より『蔣礼鴻全集』(浙江大学出版社、2016年)の一冊として刊行されている。本コラムで紹介するのはこの『蔣礼鴻全集』版である。
蔣礼鴻氏は言語学、敦煌学、辞書学の専門家である。杭州大学(1998年に浙江大学と合併)中文系教授、同大学古籍研究所兼任教授、同大学漢語史専門博士課程指導教員を務め、中国敦煌トルファン学会言語文学研究会副会長、浙江省言語学会副会長・会長・名誉会長、浙江省敦煌学会副会長、『漢語大詞典』副主編、『辞海』編集委員会兼分科会主編、杭州大学敦煌研究センター顧問を歴任した。氏は文字、訓詁、音韻、目録、校勘の各分野に精通し、俗語研究、古書の校勘注釈および辞書編纂にすぐれ、とりわけ敦煌言語学と近代漢語語彙の研究において他の追随を許さず、その名は国内外に知られている。代表的著作として『敦煌変文字義通釈』、『義府続貂』のほか、『懐任齋文集』、『蔣礼鴻語言文字学論叢』、『古漢語通論』(任銘善教授との共著)、『類篇考索』、『目録学与工具書』、『咬文嚼字』および論文数百篇を発表している。
現在、田村祐之(姫路獨協大学教授)、戸内俊介(二松学舎大学教授)、田村加代子(名古屋大学准教授)、許永蘭(瀋陽工業大学副教授)を含めたグループで、本書の日本語翻訳の計画を推し進めている。以下において、本書の紹介の一環として、第1章の日本語訳を掲載し、読者の参考に供したい。訳者は上記の4人である。なお本書は、中国国家社会科学基金中華学術外国語訳助成プロジェクトに採択され、韓国語訳が2023年に韓国亦楽出版社より韓国で出版される予定である。また、浙江大学学術名作外国語訳助成プロジェクトにも採択されており、英語訳が2023年にシュプリンガー・ネイチャーより世界各国に向けて出版される予定である。
October 6, 2022