特任研究員 宮本亮一
ソグド語、つまり、現在のウズベキスタンとタジキスタンの一部にあたるソグドを故郷とした歴史上の民族であり、シルクロード上の商人として活躍しただけでなく、東部ユーラシアの歴史においても重要な役割を果たしたソグド人の言語を独習できるよう編まれた本書は、アジア研究、それどころか、我が国の人文科学の歴史における比類なき業績であり、仮にも、中央ユーラシア史という学問分野が途絶えることのない限り、将来、永遠に参照され続ける不滅の学術遺産である。インド・ヨーロッパ語族、インド・イラン語派、中世語、東方言に属するこの言語を独習するための教材は、これまで世界で一冊も刊行されておらず、この点だけをもってしても、本書がどれほど画期的であるかがわかる。
著者の吉田豊は、故ヴェルナー・ズンダーマン(Werner Sundermann)、そしてニコラス・シムズ=ウィリアムス(Nicholas Sims-Williams)と共に、世界の中期イラン語、とりわけソグド語の研究を牽引してきた、そして今もその立場にある、稀代の言語学者である。本書は著者が、長年大学の講義に使用してきた教材を出版用に整理したものであるが、今回改めて、誰もが手に取られる形で刊行されたことは、まことに喜ばしい。
本書は、歴史と言語について簡単に解説した「導入編」から始まる。わずか20頁の中に多くの情報が凝縮された前半部分には、世界屈指の言語学者であると同時に、並の専門家を遥かに凌駕する歴史家でもあるという、著者の類稀なる特性が反映されており、読者はこの部分を一読するだけで、ソグドとソグド人の歴史に関する相当量の知識を得ることができる。後半部分は、ソグド語の基本的な情報、工具書、資料の概観、本書で使用される略号などが解説されている。
次に、ソグド語の文法を学習するための、全23課からなる「本編」が続く。各課のタイトルは次の通り。
第1課 文字と発音
第2課 名詞活用の範疇と冠詞について
第3課 接続詞と前置詞:語順と文の構造のあらまし
第4課 名詞活用(1)
第5課 名詞活用(2)
第6課 動詞の活用:現在形
第7課 人称代名詞
第8課 過去をあらわす形式(1)未完了過去;不定詞
第9課 過去をあらわす形式(2)過去形;命令形;過去分詞;疑問詞
第10課 指示詞(1);再帰代名詞;相互代名詞
第11課 指示詞(2);不定代名詞;複合語;未完了過去の否定文
第12課 法(mood);接続法の形式と機能;熟語動詞;同語反復
第13課 数詞と可能法(potentialis)など
第14課 関係節と比較級・比較構文
第15課 希求法と非現実法;s’ct「〜すべきである」の用法
第16課 過去分詞を使った活用形(完了と受動)と副詞など
第17課 中動態と接辞など
第18課 後期の文献における形式;繫辞の復習;不定詞と動名詞
第19課 現在分詞と副動詞など;āz過去;encliticの要素
第20課 間投詞;skwnとk’m;接続詞と従属文など
第21課 非現実を表す–n;Injunctive;前置詞と後置詞;不変化詞
第22課 敬語法;古代書簡の言語;遅い時代の言語
第23課 所有表現と疑問文;付録 数字
おそらくソグド語を学ぶ上でハードルになるのは、リズム規則、非現実法、可能法、Injunctiveなど、馴染み深い印欧語を学ぶ際には目にしない文法事項があること、また品詞の活用や機能に多くの例外があり、記憶すべき事柄が極めて多いことであろう。「本編」には、こうした文法に関する既知の情報が網羅的に記載されている。しかしその記述は、初学者が細かな文法事項につまずくことがなく、段階的に学ぶことができるよう配慮されており、安心して学習を進めることができる。しかも、本書の最後には、初学者がまず覚えるべき事項をまとめた早見表まで備えられている。一方で、本書の目次は、各課のタイトルを示すだけでなく、そこで説明される細かな内容が一目でわかるようになっており、特定の文法事項に関する詳しい情報を求める人は、たちどころに該当の箇所を参照できるように工夫もされている。
「本編」とそれに続く「読本編」を終えても、本書にはまだ200頁近くの分量が残っている。そこにはまず、本書に登場したものだけでなく、ソグド語資料でよく見られる頻出単語をも含んだ「語彙表」が掲載されており、学習者はこれを辞書として利用することができる(あえて望蜀の言を述べるならば、語彙表に掲載されている単語のうち、本書に登場するものには、その該当頁を記して頂きたかった)。さらに、続く「付録編」には、訓読語詞のほか、歴史を研究する者にとって必須の情報である、暦、度量衡、借用語などがまとめられており、ここにも著者の研究者としての特徴が大いに反映されている。
現在、本書の「語彙表」以外に、次の3つのソグド語辞書があり、多くの大学図書館に所蔵されている。
・Sims-Williams, N. & D. Durkin-Meisterernst (eds.) Dictionary of Manichaean Sogdian and Bactrian, (Corpus fontium manichaeorum ; Subsidia . Dictionary of Manichaean texts ; v. 3 . Text from Central Asia and China, Turnhout: Brepols, 2022
・Sims-Williams, N. A dictionary: Christian Sogdian, Syriac and English, Beiträge zur Iranistik ; Bd. 41, Wiesbaden: Reichert Verlag, 2021
・Gharib, B. Sogdian dictionary: Sogdian-Persian-English, Tehran: Farhangan Publications, 1995
最初の辞書はマニ教ソグド語、次はキリスト教ソグド語の辞書であるが、もちろん世俗文書や仏典を読む際にも利用できる。最後の辞書は少し情報が古く、これに代わる新しい辞書の出現が望まれるが、現在も利用可能である。また、ソグド語を含むイラン語の動詞に関しては、次の語源辞書があり、極めて有用である。
・Cheung, J. Etymological dictionary of the Iranian verb, Leiden Indo-European etymological dictionary series 2, Leiden: E. J. Brill, 2007
このように、種々の工具書が発表され、さらに本書が刊行されたことで、ソグド語を学習するための環境は十分に整ったといえる。おそらく、現時点で本書を手に取っているのは、すでにユーラシアの歴史に関わる研究に従事している大学院生や研究者たちであろう。もちろん、それだけでも本書の役割は十分に果たされているといえる。しかし、その真の価値は、新しい世代のイラン語研究者を生み出す可能性をもたらしたことにある。著者がいうように、「ソグド語を学ぶことは、それ自体が研究(p. 50)」であり、本格的な研究に着手するためには、乗り越えなければならないハードルは高く、本書が刊行されたとはいえ、すぐにこの言語の優秀な専門家が出現するわけではない。しかしそれでも、本書を手にソグド語を勉強した若い人たちの中から、将来、著者に比肩するようなイラン語学者が出現することを心から期待したい。
ちなみに、私は本書のもとになった講義教材を通して、魅力的だが極めて困難なソグド語研究のほんの一端に触れた一人であった。吉田先生の正規の学生ではなかったが、恐らく、先生がこれまで発表されてきた数多の研究成果から最も多くの恩恵を受けてきた者の一人ではないかと思っている。このような雑文では何の恩返しにもならないが、改めて襟を正し、自身の研究を進めることで、少しでも先生から受けた学恩に報いてゆきたい。かつて先生は、ご自身の師であるシムズ=ウィリアムスの還暦記念論集に寄せた文章で、ご自身と恩師の年齢が近いことはとても幸運なことであった、と書かれたことがあったが、私自身も、先生の謦咳に接する機会に恵まれていることを至上の幸運と考えている。むろん、そのように感じている者は私だけではあるまいが。
【書誌情報】
著者:吉田豊
出版社:臨川書店
出版年:2022年
ISBN:9784653041887
NCID:BC16322864
http://www.rinsen.com/linkbooks/ISBN978-4-653-04188-7.htm
November 22, 2022