東洋文庫非常勤職員等
中川 太介
中国近代史において、地方はそれぞれ独特の社会的、或いは経済的な背景から、国家との間でしばしば政治的、軍事的に対立する局面を見せてきた。雲南は山西や広東などと並び、そうした地方の典型であり、中国の近代政治史において注目されてきた。当時の雲南省政府が編纂した地方志『続雲南通志長編』は、中華民国期の地方を考察する上で多くの手がかりを提供する資料になっている。
内容について
『続雲南通志長編』の内容については、1911年から日中戦争終結ごろまでの雲南の政治史や議会、行政、産業、文化などについて、20種以上の分野を設けて記述されている。その中には、政策の実施や税金の配分などをめぐる中央政府との折衝を、実際の政府文書を直接引用して記述している部分も少なからず見られ、地方政権としての性質が反映されていて興味深い。一方で、既存の資料からの引用があったり、或いは編纂のために省内の各地方政府に一斉に照会して得られた回答を踏まえて記述したと思われる箇所があったりする。後者の場合、画一的・表面的になっている部分が少なくない。また、後述の編集や資料管理における経緯から、原稿が4種類存在していたようで、記述が混乱している箇所も散在している。更に、一つの分野にあって、記述の内容が重複していたり、或いは記述された事象の具体的な時期が不明瞭だったりする。このため、あらかじめ別の資料や概説書などで内容を把握したり、時系列を整理したりするなど、参照にはある程度の工夫が必要である。ちなみに日中戦争や英領ビルマとの外交案件などに関する記述では一部の文章が現存していない。
編纂の過程と背景
『続雲南通志長編』の編纂は1930年代から1940年代前半の間にかけて、当時雲南を統治していた竜雲政権によって行われた。雲南の政府は明朝から清朝末期まで、「雲南通志」の名を冠する地方志の編纂・刊行を定期的に行ってきた。辛亥革命より1920年代後半まで、唐継尭が雲南を統治していた時期において、雲南の地方文献を収録した『雲南叢書』の編纂はあったものの、「雲南通志」が編纂されることはなかった。1920年代末に、唐の側近であった竜雲が雲南省の政権を握り、以降日中戦争期終結まで長期政権が続くことになった。1930年に竜雲の提案を受ける形で、雲南省政府は辛亥革命より以前の地方志として『新纂雲南通志』、及び中華民国期の地方志として『続雲南通志長編』の編纂を決定する。1931年、編纂を行う機関として省志籌備処が設置され、同年9月には雲南通志館に改称して編纂を開始した。ちなみに、専ら竜雲政権の行政事業を記述した地方志として、『雲南行政紀実』を雲南省政府が1943年に編纂している。
雲南通志館で編纂にあたったのは周鍾嶽、趙式銘、由雲竜、袁嘉穀ら中華民国期の雲南省政府において要職を歴任した文人たちである。彼らの多くは省政府で特に教育や塩業行政に従事した経歴を持つ点で共通している。また、周鍾嶽、趙式銘は『雲南叢書』の主編であった趙藩とは、ともに今日でいう少数民族の白族で、省西北部の剣川県出身であり、『雲南叢書』の編纂者たちの一部は、雲南通志館でも編纂にあたっていた。ちなみに中華人民共和国以降、雲南の歴史研究で第一人者の一人であった方国瑜は、剣川に隣接する麗江県の少数民族ナシ族の出身で、雲南通志館で編纂事業に従事していた。1940年代ごろまで、雲南の人口1500万人のうち3分の2は非漢人と見られており、当時の雲南の軍人や官僚でも非漢人の出身者は少なくなかった。竜雲も今日の少数民族の彜族出身である。
『続雲南通志長編』には地方志に通例の序文がない。『新纂雲南通志』には序文があり、そこでは竜雲がこう述べている。「民国よりのち、護国や靖国などの戦役において、雲南人は国家に力を尽くした。その功績、忠義のほどは清朝時代を超えている」。「護国」とは1915年12月、皇帝制を復活させた中央政府の袁世凱政権に反発して、雲南省政府が全国で最初に軍事行動を発動し、翌年3月には皇帝制の撤回に追い込んだ護国戦争を指す。「靖国」とは、唐継尭政権が1917年に広東省に拠った孫文政権に加入し、北京政府を擁護していた隣接の四川省に出兵した護法靖国運動を指す。竜雲はここで、雲南の人々が往時北京にあった中央政府以上に、中国の政治において正当な道のりを歩んできたことを強調しているのである。雲南通志館によって順調に編纂が行われていた1930年代は、竜雲政権が中央の蒋介石政権と概ね良好な関係にあった時期にあたる。竜雲政権は唐継尭政権以来の対外的な拡張方針を転換し、省内のインフラや行政事業の拡充に注力していた。編纂事業を通じて雲南の地域色を強調し、地方政権としての正当性をアピールする狙いもあっただろう。
しかし、『続雲南通志長編』と『新纂雲南通志』はその後、編纂や刊行に支障をきたすことになった。1937年に日中戦争が勃発すると、中央政府は戦争遂行のため地方政府を掌握する動きを強めるようになった。雲南通志館の館長で『続雲南通志長編』と『新纂雲南通志』の主編の一人であった周鍾嶽は1938年中央政府に内政部長として招聘され、編纂作業から離れることになった。『続雲南通志長編』は1941年に原稿ができたものの、1944年に雲南に立ち寄った周鍾嶽によってその内容に多くの不備が指摘され、改訂を余儀なくされる。日中戦争終結直後、竜雲が蒋介石軍によって身柄を拘束され、中央政府の名誉職に異動した。雲南省政府内では中央政府系と旧竜雲政権系の間で派閥対立が激化した。1948年になると雲南通志館では編集者の異動が相次ぎ、編集をめぐる意見の対立が顕在化するようになったという。結局、日中戦争終結後も『続雲南通志長編』は改訂の完成を見ないまま、中華人民共和国の成立を迎えた。序文がなかったのはこうした事情による。ちなみに『新纂雲南通志』については1935年には原稿ができたが、日中戦争期やその後の時期に進行したインフレに悩まされた。省政府の予算額では出版ができない事態が続き、中華人民共和国成立直前の1949年にようやく出版されている。『続雲南通志長編』の編纂作業においても、人事だけでなく、こうした資金面の困難があったと察せられる。
雲南省政府は1949年、中華人民共和国政府に吸収された。雲南通志館は閉鎖になり、『続雲南通志長編』の原稿をはじめ編纂した資料は、雲南省図書館に移管された。その後、『続雲南通志長編』は長期にわたって刊行されることはなかった。
現代における刊行について
1980年代、文化大革命が終結し改革開放政策が進行する中で、中国国内では地方の文化や歴史に対する再認識の動きが高まるようになる。中華人民共和国期を含めた地方志の編纂事業が国内の各省や各県で行われるようになった。雲南でも1980年代末から2000年代にかけて県志(県の地方志)の刊行が相次ぎ、『雲南省志』も1981年から編纂され、計82巻の刊行を1990年から2004年に至るまで行った。こうした動きの中で、『続雲南通志長編』も雲南省政府に注目され、1981年より原稿の整理が進み、1986年に上冊、中冊、下冊で刊行を迎えたのであった(2010年に雲南民族出版社より重版)。刊行に当たり、竜雲政権の要人である晩年の繆嘉銘も校訂に協力したという。ちなみに『新纂雲南通志』も2007年に雲南出版集団から簡化字版が、そして2009年に鳳凰出版社の中国地方志集成のシリーズから原本を撮影・縮小した版が再出版されている。
利用環境、および周辺の書誌について
本文で紹介した雲南の地方志についてはそれぞれ日本の大学機関で閲覧が可能である。帝京大学メディアライブラリーセンタ―は2010年重版の『続雲南通志長編』、および『新纂雲南通志』の2007年出版のものと2009年出版のものを所蔵している。東京大学文学部図書館の漢籍コーナーでも2007年度版の『新纂雲南通志』を所蔵している。学習院大学史学科研究室では『雲南行政紀実』を所蔵している。早稲田大学中央図書館では中華人民共和国の『雲南省志』、および雲南省各県の県志を多く所蔵している。明治大学中央図書館でも早稲田大学と同様に中華人民共和国の各県志を所蔵している。
ちなみに帝京大学メディアライブラリーセンターでは中華民国期の雲南省政府に関する政府文書を大量に撮影した『民国時期西南辺疆檔案資料匯編雲南巻』(2013年、社会科学文献出版社)、および『民国時期西南辺疆檔案資料匯編雲南広西綜合巻』(2014年、同前)を所蔵している。前者は雲南省檔案館が管理している政府文書を収録しているが、内容は実際の行政業務に関するものが多い。後者は南京の第二歴史檔案館が管理している国民党政権期の中央政府の雲南省・広西省に関する文書を収録している。内容は前者に比べ個別の案件において経緯の説明や中央政府と省政府との折衝の過程を反映したものが多い。両者ともに収録された政府文書は日中戦争期が中心であるものの、行政の各分野を網羅しており、近代中国の地方政治史を研究する上で貴重かつ総合的な資料といえる。
画像
竜雲:サンケイ新聞社『蒋介石秘録12 日中全面戦争』、サンケイ出版、1976年、195頁。
周鍾嶽:雲南塩運使署『雲南塩政公報』32期(1922年5-6月)、図画。