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東京大学附属図書館アジア研究図書館
上廣倫理財団寄付研究部門
Uehiro Project for the Asian Research Library

COLUMN

トハーリスターンの歴史を研究する(特任研究員 宮本亮一)

トハーリスターンの歴史を研究する

特任研究員 宮本亮一

トハーリスターン全域図(筆者作成)

この小文のタイトルにあるトハーリスターンという固有名詞を聞いた時,それが,おおよそ現在のアフガニスタン北部,ウズベキスタン南部,タジキスタン南部にあたる範囲を指していた地名だということを,果たして何人の日本人が知っているだろうか。紀元前2世紀頃にユーラシア北方の草原地帯からこの地域に到来した遊牧集団の1つトハロイに由来するこの地域名は,イスラーム時代以降も存続し,現在もアフガニスタンの州名(タハール)として残っている。非常に長い時間にわたって使用され続けたにもかかわらず,恐らくこの地域名を知っている人は,中央ユーラシア(中央アジア)の専門家以外にはほぼいないだろう。ちなみに,トハーリスターンの名が現れる以前,この地域はバクトリアと呼ばれていて,こちらの地域名は見聞きした人はいるかもしれない。

5世紀のバクトリア語世俗文書(羊皮紙),「羊」や「女性」という単語が確認できる(龍谷ミュージアム蔵)*

イスラーム時代以前のトハーリスターンでは,バクトリア語という中期イラン語の東方言が使用されていた。バクトリア語以外には,ソグド語,コレズム語,コータン語が同じ方言に属する。バクトリア語の大きな特徴は,その表記にギリシア文字を用いていることで,これは,アレクサンドロス3世(大王)の東征後にこの地域に根付いたギリシア文化の深さを物語っている。現存する最古の資料は104/105年に書かれた碑文で,アフガニスタンのガズニー西方の4000m越えの山の上にある。一方,パキスタンのトーチ渓谷の碑文が最も新しく,858/859年のものである。ちなみに,この言語に「バクトリア語(Bactrian)」という名を与えたのは,高名なイラン語学者W. B. Henning(1908-1967)であったが,実際にはこの言語が使用されていた時期にはバクトリアという地域名は廃れていた。これでは適切な命名とは言えないと思われるかもしれないが,バクトリア語研究の端緒を開いたクシャーン朝時代のスルフ・コタル碑文(2世紀)が発見された時,すでにトハラ(トカラ)語という名称が別に存在しており,この言語にトハーリスターンに因んだ名前を付けることはいたずらに混乱を招くだけとして,避けられた。

私は,バクトリア語などの現地語資料を中心に,より新しい時代のアラビア語文献なども援用して,主に前イスラーム時代のトハーリスターンの歴史に関わる様々な問題を研究している。しかし,この地域の歴史,しかもイスラーム時代以前のそれを専門としている人間は驚くほど少なく,同世代では,国内に私を含めてたった2人しかいない。こうなると,研究者の専門分野としてトハーリスターンの名を掲げることは躊躇せざるをえず,自己紹介をする時は,「中央ユーラシア史を研究しています」などと言うことになる。私はトハーリスターンを中心に広く中央ユーラシアの歴史像を明らかにしようと研究に取り組んでいるので,これはこれで問題ないのだが,例えば,「モンゴル時代史」や「唐代史」などのように,誰が聞いてもすぐにわかる専門分野を掲げる人を羨ましく思わなくもない。

自身の専門分野のネガティブな側面を強調し過ぎたかもしれないが,こうしたマイナーな分野の研究を行うことにはもちろん良い面もある。まず,研究分野がほとんど誰とも被ることがなく,学閥や論争とはほとんど無縁で,研究を進める上での精神的負担が小さい。先ほど同じ分野の専門家が1人いると書いたが,分野の知名度の低さから考えれば,これは奇跡に近い。私はいかなる神も信仰していないが,この同業の考古学者に出会えたことを神に感謝したい気持ちである。また,これは文献を利用した研究者だけの話になってしまうが,他の人がほとんど知らない言語について勉強できることも,この分野の研究の楽しみの1つである。バクトリア語のような死語に関しては,言語の専門家になることはとても難しいが,歴史研究でも充分に資料を読む楽しさを味わうことができる。資料の写真版を眺めつつ,「読める,読めるぞ!」という彼の名言を自ら発することも夢ではない。さらに言えば,この分野の研究では発見の喜びがとても大きい。バクトリア語が使用されていた時代のトハーリスターンは不明な部分が多く,政治史だけに限ってみても,一般向けの通史を書くことがほとんど不可能なほど良くわかっていない。それだけに,どんな小さなことであっても,新しい発見をしたときの喜びはひとしおで,研究の大きな醍醐味の1つと言える。

今後トハーリスターンの知名度が向上することはあり得ないし,この分野の研究者が増える可能性は低い。しかし,私が研究を継続することが,学問の次世代への継承に繋がると信じ,地道な研究を続けているところである。

留学先のパリ(筆者撮影),昔から古代中央ユーラシア史研究の拠点の1つはパリにあった

 

*この文書に関する研究は,Sims-Williams, N., “A Bactrian document of the fifth century CE”, Bulletin of the Asia Institute (new series) 27, pp. 107-112, 2017を参照

2021.6.22