【アジア研究この一冊!】黒柳恒男『増補新版 ペルシア文芸思潮』

特任助教 徳原靖浩


 専門はペルシア文学です、というと、一昔前は、岩波文庫に入っている『ルバイヤート』、あれはいいねなんて言葉が返ってくることもあったのだが、近年では、「『アラビアン・ナイト』みたいなのですかと言われることが多い。『ルバイヤート』なら「よくご存じで」と答えられるところだが、『アラビアン・ナイト』と言われるとあたらずといえども遠からず——アラビア語の『千夜一夜物語』に含まれる物語の多くは、インドやペルシアやギリシャが起源とされそれらを収録した『千の物語』というパフラヴィー語(中期ペルシア語)作品がアラビア語に翻訳されたものが、『千夜一夜物語』の原型とされる——説明がややこしいから、まあ、近いですなどと答えてしまうのだが 

 『ルバイヤート』も『アラビアン・ナイト』も、西洋文学、特に英文学を経由して日本に伝わってきたものだ。英詩人E・フィッツジェラルドの空想をかき立てたハイヤームの四行詩集(ルバーイーヤート)、ドイツの天才詩人ゲーテに『西東詩集』に結実するインスピレーションを与えたハーフィズの抒情詩集など、ペルシア文学はヨーロッパの文学にも影響を与え続けてきた。現代の日本においても、フィルドウスィー『王書』に繰り広げられるペルシアの英雄譚の世界観にも似た架空世界を舞台とする田中芳樹氏の『アルスラーン戦記』やアッタール『神秘主義聖者列伝』に取材したと思しきイスラーム神秘主義の世界を舞台にミステリーを描く古泉迦十氏の『火蛾』といった文学作品が生まれている。文学以外の分野でも、音楽やマンガやゲームなど、古今東西のコンテンツにアイデアを提供し続けるペルシア文学は世界文学のネタの宝石箱やと言っても過言ではない。 

 その一方で、一般にはペルシア文学がどういうものか、まだまだ知られていないというのが実情である。ニザーミーの『七王妃物語』、『ホスローとシーリーン』、アッタールの『神秘主義聖者列伝』、『鳥の言葉』、『神の書』、フィルドウスィー『王書』、サアディー『薔薇園』、『果樹園』、ハーフィズ詩集など、原典からの日本語訳は増えているが、これら珠玉の名作を生み出してきた鉱脈の全貌について知るためには、やはりペルシア文学史を紐解く必要がある。 

黒柳恒男『ペルシア文芸思潮』旧版

 ここに紹介する増補新版の元となった『ペルシア文芸思潮』(近藤出版社、1977年)は、東京外国語大学のペルシア語科の創設に尽力し、同大学におけるペルシア語教育の礎を築いた故・黒柳恒男氏によるペルシア文学史であり、日本語でまとまった形で読めるものとしては唯一のものである。それ以前には、荒木茂『ペルシヤ文学史考』岩波書店、1922年)、徳澤龍潭『イラン・ものがたり』(目黒書店、1943年)、蒲生礼一『ペルシアの詩人』(紀伊國屋新書、1964年)などの文学史的著作があったが、前二者は主として欧米の研究書や翻訳に頼ったもので今となっては学術的な価値は低く、『ペルシアの詩人』はペルシア語原典に依拠した本格的な訳詩を掲載するが、サアディーとハーフィズの二人の詩人を論じるにとどまる。 

 蒲生礼一氏の衣鉢を継いだ黒柳氏による『ペルシア文芸思潮』は、アラビア文字を表記に採用した書き言葉としての近世ペルシア語の形成から20世紀(1970年代まで)にいたるペルシア文学の歴史を扱い、しかもコンパクトな1冊の書物にまとめたという点で、上記の先行する著作とも、欧米の大部の書物とも一線を画するものである。そこには、将来外交や貿易の世界で活躍する学生たちに、イランの人々と付き合う上で必要最低限の文学史に関する知識を授けたいという教育的な意図もあったのかも知れない。 

 とはいえ、本書は教科書的にただ作家と作品を並べ連ねることに終始するのではなく、一般読者や学生が通読するに値する読み物としても成立している。内容面では、上述の荒木や徳澤の著作が15世紀の神秘主義者ジャーミーまでの記述にとどまるのに対して、本書は、10世紀から16世紀頃までの詩と詩人に関する記述に大きな比重をおきつつも、第5章でサファヴィー朝以降の「文学の衰退時代」、第6章で「近代文芸の流れ」について論じている。詩に比して扱う分量は少ないものの歴史書や物語文学などの散文学の流れについても目配りがなされており、時代ごとに主要な作品が紹介されている。 

 また、本書にはペルシア語原典から翻訳した詩もふんだんに挿入されているから、ペルシア詩の主題や内容についても知ることができる。そして、詩人や作家の伝記や作品の帰属についての議論や文献に関する記述では、当時のイランや欧米の研究成果が紹介されていることに加え、文献から得た知識だけでなく著者自身がイランの学者との交流で得た知見もところどころに反映されているから、その点でも独自の価値を持つものであることは強調しておきたい。 

 このように画期的な一書であり、授業でも教科書として使われたという『ペルシア文芸思潮』は、しかし、出版社の廃業により長らく絶版となっており、古書でしか手に入らない状態にあった。図書館で借りることもできるが、本格的にペルシア文学を学ぶ学生には、やはり手元において参考書として使ってもらいたいどうにか復刊できないものかと、ペルシア文学研究や出版に携わる卒業生と話していたところ、諸先輩方のお力添えもあって、東京外国語大学出版会から増補新版として出版していただけることになった。黒柳氏にとっても編集にあたった私たち卒業生にとっても所縁のある大学の出版会からの復刊であるから、これ以上の望ましい形は考えられない。この場を借りて全ての関係者に感謝申し上げたい。 

 本書を復刊するにあたって、旧版の刊行から40余年の間のペルシア文学研究の進展を反映させるかどうか、させるとしたらどのように反映させるかということは、大きな検討課題の一つであった。1979年のイスラーム革命以降の文学史についても何らかの情報が欲しいところであるし、前近代のペルシア文学史に関してもイランや欧米で日進月歩の研究がなされており、新資料の発見や新説により作品の位置付けや、文学史そのものの見方にも変化が生じている。人名や地名のカタカナ表記の方式も、今日浸透している形は旧版のそれとは違ってきている。思い切って全て今風の表記に改めるべきかどうかまた、新しい学説に従い本文に修正を加えたり、逐一注を付したりするべきだろうか——しかし、そうだとしたら、あえて本書を復刊する意義は 

 そんなことを考えながら旧版を改めて読み返してみると、カタカナ表記やルビの使い方、訳語の選定などにも当時ならではの工夫の跡が見受けられる。古典作品の本文校訂と同様に、現在の視点から迂闊に手を加えれば、知らず知らずのうちに著者が意図した一貫性や整合性を損いかねない。また、現在の定説とされるものも、新資料の発見や検証によってやがては古びてしまうことは避けられない。議論が一周回って実は古い説の方が正しかったということもありうるのがこの世界だ私たちが手を加えることで逆に不整合や間違いが生じるようなことは避けたい。 

 そんな考えから、復刊にあたって本文には極力手を加えず、著者が意図しなかったと思われる誤記や誤植と思われるものを中心に必要最低限の修正を施し、必要に応じて補注を付すに留めた。その代わりに、本書を読んでもっと詳しく知りたいと思った人が、新しい研究文献や翻訳書にあたることができるよう、「さらに知りたい人のための文献案内を付した。これには、本書以降の文学史研究の動向に関する情報や、日本語に翻訳されたペルシア文学作品のリストも含まれるので、ペルシア文学作品を日本語で読んでみたい方は是非参照されたい。この文献案内の作成や現代作家の没年の補記に関しては、ともに編集作業をしていただいた中村菜穂氏に大変骨を折っていただいた。黒柳氏に直接薫陶を受け、長年ペルシア語教育の現場に立っておられる佐々木あや乃氏による「あとがきにかえて」も、復刊の意義や旧版刊行当時の雰囲気を伝える興味深い文章であるので一読をお勧めしたい。 

 読者が本文中に現れる書名や人名の綴りを知ることができるよう、索引も新たに作り直しALA-LC翻字方式のローマ字表記を付した。この翻字形は、CiNii Booksなどで大学図書館の資料を検索する際、そのままの形で利用できる。詳しくは新版の「アラビア・ペルシア文字の転写方式」を参照されたい。 

 旧版がもつ価値に加え上記のような増補によって、インターネット時代の読者にとっても役立つ一書になったのではないだろうか。本書の刊行を機に、ペルシア文学と言えばニザーミーやルーミーやヘダーヤトですかとの言葉が返ってくるようになることを期待したい。 

 

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March 1, 2022