U-PARL特任准教授 永井正勝
2020年11月17日、オープンアクセスを支えるプラットフォームのInternet Archiveにて、以下の書籍が公開された。公開者はカナダのトロントにあるアルバータ大学図書館である。以下、本書公開のいきさつについて記すことにより、関係者への謝辞に代えたい。
Egyptian grammar for beginners : with chrestomathy and glossary
by Mercer, Samuel A. B. (Samuel Alfred Browne)
Publication date 1926
https://archive.org/details/egyptian-grammar-for-beginners/page/26/mode/2up
私の専門は古代エジプト語の言語学である。5年ほど前から、とあるテーマのもと、中エジプト語の文法書を網羅的に収集して比較するという悉皆調査を地道に続けている。
収集の方針は、シャンポリオンのヒエログリフ解読(1822年)以降に出版された中エジプト語の文法書のうち、一定以上の学術的な水準を持つものについて、版違いまで含めて揃えるというものだ。書籍の言語は問わないこととし、なるべく現物を購入するようにしている。現在のところ、英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語、イタリア語、スペイン語、ロシア語で書かれた中エジプト語の文法書を150冊ほど手元に揃えている。150冊というのはたいした数ではないように思われるかもしれないが、この数は、エジプト学科を持つ海外の大学図書館/図書室の蔵書と比較しても引けを取らないばかりか、むしろ凌駕しているほどである。
新たな書籍の探索方法についてはいたって普通で、エジプト学関連のWEBサイトや書籍データベースの参照、文法書や論文等に付された参考文献一覧の参照、図書館所蔵のWEB検索、その他のWEB検索などを行なっている。図書館所蔵のWEB検索としては、まずはWorldCat、CiNiiBooks、慶早図書館の所蔵検索などを利用することになる。
対象が洋書であることに加え、日本ではマイナーな分野であるため、検索にはWorldCatを使用する頻度が高い。だが、WorldCatでは、レコードの重複のほか、名寄せが不完全であったり、入力ミスが散見されたりする。大変に便利なデータベースではあるが、WorldCatの検索結果を鵜呑みにすることもできず、文献の同定は慎重に行う必要がある。
このような前提のなかで発見したのが、カナダのセム語学者で元トロント大学教授のサムエル・アルフレッド・ブラウン・マーサー(Samuel Alfred Browne Mercer)によるエジプト語文法の一冊である。
調べによると、マーサーは以下の二冊の中エジプト語文法を著している。
Mercer, Samuel Alfred Browne
(1) Egyptian grammar for beginners : with chrestomathy and glossary
London : Luzac, 1926.
vi, 184p
(2) An Egyptian grammar with chrestomathy and glossary
London : Luzac, 1927.
vi, 184p
このうち、(2)については殊に有名であり、再版がいくつが出版されている。私は以前より初版を所有しており、それが下の写真である。
WorldCatで年代を絞って(2)を検索すると、3つのレコードがヒットする(→検索結果)。内容を確認するといずれも同じ書籍のものである。このように、本書のデータには重複があるのだが、これら3件のレコードに記載されている所蔵館数を合計すると172となる。
そして、WorldCatを使って新たに発見したのが(1)だ。検索レコードは1件で、その所蔵はアルバータ大学図書館のみとなっている(→検索結果)。
さて、これらの(1)と(2)であるが、著者、出版社、出版地、総ページ数が同一で、タイトルが異なっている。ただし、そのタイトルも後半部分(一方は副題)は同じである。そして、(2)の所蔵が世界で172機関であるのに対して、(1)の所蔵はわずか1機関のみとなっている。このことから私は、(1)の情報は何らかの入力ミスなのではないかと疑いつつ、アルバータ大学の所蔵する(1)の取り寄せ(ILL)を東京大学総合図書館相互利用係に依頼した。
その後、ILLのやりとりで、あなたが探しているのはもしかしたら(2)ではないですか、との回答があった。そこで私は、いやいや違うのです、謎の(1)があるのですと思いつつ、(2)の「タイトル・書誌情報・序文・目次」の写メをILLにお送りした。するとアルバータ大学図書館から、(1)の「タイトル・書誌情報・序文・目次」のスキャン画像が送られてきた。これにより、WorldCatの情報は入力ミスではないかという私の疑念は見事に退けられ、(1)の存在が確実となったのである。
そうなると、次に、本書の実物あるいは複写を取り寄せる必要があったのだが、嬉しいことに、アルバータ大学図書館の責任で(1)のデジタル化を行い、無償で公開してくれることとなった。それが、冒頭に紹介したInternet Archiveのコンテンツだ。
以上が、WorldCatの検索で所蔵が世界に1館しかないレアな一冊が無償でデジタル公開されることとなったいきさつである。
さて、タイトルと出版年の異なる(1)と(2)だが、実際、これらの書籍は別のものなのだろうか。公開された画像を使って比較を行なったところ、両者は全体としては同一内容の書籍であるものの、いくつかの点で違いが見られた。現時点で把握できている両者の違いは、(2)になって、序文に若干の修正が加えられたこと(でも年代は1926年のまま)、謝辞の相手が変更されたこと、シリーズ名が付加されたこと、本文の誤植が訂正されたことにある。その他、著者名は当然として、章立て、総ページ数、出版社、出版地は同じである。(2)の序文に記された年代が1926年のままである一方で、エジプト語文法の解説という点でほぼ同一内容の書籍であるのにタイトルが変えられているのは、なんとも不思議な対応である。
最後に(1)にある署名について述べておかねばならない。冒頭の写真の右上に直筆の署名があるが、どうやら、この署名はマーサー(Mercer)本人のものである。そして、本書には鉛筆で修正案が加筆されているが、翌年に出版された(2)では(1)の修正案通りに原稿が修正されている。おそらく、修正案を加筆したのはマーサー本人なのであろう。版の違いを調べるという点で、アルバータ大学図書館によって公開された(1)は貴重な資料だと言える。
中エジプト語の文法書の悉皆調査を楽しんでいる私にとって、Egyptian grammar for beginners : with chrestomathy and glossary は、どうしても確認すべき「この一冊!」であった。それゆえ、日本とカナダのライブラリアン達の献身的なサービスのおかげで念願の「この一冊!」を確認することができたのは、一個人として大変に喜ばしいことであった。しかしながら、そのこと以上に、貴重な書籍がオープンアクセスで公開され、世界の人々に開かれることとなったという状況に、無上の喜びを感じている。コロナ禍で物理的な活動が制限されているだけに、デジタルコンテンツ作成に関与した担当者達の労を考えると、オープンアクセスによる書籍の提供は、利用者として心に染み入るありがたいサービスだと言える。
2021年9月7日