特任研究員 荒木達雄
一昨年、本欄にて「生きている水滸伝 ──変化しつづける伝統」なる駄文をものした。台湾の風習・宋江陣について知るところを述べ、コロナウイルス感染症のために「1年半以上台湾へ行けないままに妄想をつづけています」と締めたものである。
それからさらに1年半が経ち、今年(2023年)4月、ついに宋江陣ゆかりの地を再訪することができた。といってもたった1日で、前回と異なり車もバイクもなく、頼れるのは公共交通機関と自分の足のみということで、比較的互いに距離の近い7か所を訪問できただけであった。2018年と2019年には、このほかにもおおまかに区分して3つの地域を回ったのだが、それはまたの宿題としておくしかない。“調査”というにはおこがましい程度でしかないのだが、今回の訪問でわかったこと、さらにこの1年半で文献によりわかったことにもとづき、前回の駄文をいささかながら前進させておこうと思う。
まず、前回すでにわかっていたものの書いていなかったこと。
宋江陣に関わる田都元帥、田府元帥、田島千歳(以下、廟ごとの個別の名に言及する以外は“田都元帥”に統一)の廟は多くの場合、近くにより大きな廟があり、その手前の右側か左側に設けられている。大きな廟の境内のなかでわずか数メートル程度の近さであることもあれば、百メートル以上あるのではないかと思われる遠さの場合もある(遠く離れている場合でも、かつては大きな廟の域内であったものがのちに道路工事や宅地開発などで分断されたのではないかという気がする)。大きな廟の主祀は玄天上帝、媽祖などの広く信仰を集める神である。高雄梓官の赤崁慈皇宮のように田島千歳を主祀とする立派な廟も存在するのだが、かつて田都元帥はより上位の神の廟のそばに祀られるのが一般的だったのだろう。
そして、おそらくこの件に関連し、訂正しておかなければならないこと。
前回私は宋江陣を「田府元帥(田都元帥、田島元帥などいくつか異称あり)という神さまの廟のお祭りのときに演武の形式で行われる」と書いた。しかしその後、文献を読み、今回の訪問でインタビューを行い、「田都元帥は宋江陣の守護神だが、田都元帥のために宋江陣をやるのではない」のが本来の風習であったということがおぼろげにわかってきた。
ではなんのためにやるのかというと、上に述べた、近くにある“より大きな廟”の“より上位の神”のためにやるものであったらしい。
台湾の廟に祀られている主だった神にはそれぞれ誕生日があり、その誕生日がそのまま大きなお祭りの日になる。神は立派な籠(神轎)に乗り、廟からお出ましになり、街を巡る。考え方としては日本の縁日のお神輿に似たところがあるようである。このお出ましの際、まさか神が先頭切って行くわけもなく、先駆けがつく。この先駆けにもさまざまな種類があり、山車のようなものが出ることもあれば、かしづくお付きのものたちのようなものもあれば、武器を手に道を切り開くものやそれにつづく儀仗隊のようなものもある。この武器を手にする隊列が「陣」で、宋江陣の由来のひとつなのであるようだ。この「陣」を組織する人々が出発前に祈りをささげる守護神が田都元帥で、そのために臨時に祭壇を設けていたものが常設の祭壇となり、廟が建てられるようにもなったのであるらしい。これが「田都元帥廟」とか「宋江館」とか呼ばれているものである。
ここでなぜ「宋江」が出て来るのか、神の先駆けの隊列がなぜ演武になるのかなどについては今回はさておく(まだよく理解できていないところも多いのです)。ともかく、宋江陣は田都元帥のためにするものではなく、より上位の神のためにするものであった。ここに訂正します。現在では宋江陣を売り物にして、あたかも宋江陣が廟のおまつりのメインであるかのようになっている場合もあるが、それはどうやらかつての姿ではないらしい。
大事なところの補足と修正ができたところで、今回訪問した廟と、わかったことを簡単に記しておきたい。すべて2019年にも訪れた場所である。
はじめの訪問地、九天風火院の近くまではバスで行った。一日5便のみの路線であったが、似つかわしくないほど大型の立派な車両が来た。しかし、始発から終点まで約50分、乗客は終始私一人。これでは一日5便もやむなしか。終点のバス停のすぐ向かいに小学校があり、宋江陣ではないかと思われる絵が飾られている。おお、ここも宋江陣の町(村?)で売り出しているのかと期待を持たせてくれたものだった。
1.九天風火院 (台南市塩水区南港里)
堤防の内側、河川敷のようなところにある。掲示される縁起によれば、当地を開墾した人々が守り神として田都元帥を祀り、康煕13年(1674年)に宋江館として創建したものである。住民たちは田都元帥などの神々の指導のもと、農閑期に宋江陣を学んだ。その後もさまざまなご利益があったという。百メートルあまり離れたところに俊天宮という「代天巡狩遊王公」を主祀とする廟があり、こちらは1945年に創建されたものだが、1978年に河川の工事の際に宋江館を俊天宮の二階の脇部屋に移し、1989年までそこに間借りしていたという関係がある。
今回の訪問では運よく廟守にお会いでき、少しお話をうかがった。田都元帥の誕生日は旧暦6月11日で、今年は新暦7月28日にあたる。この日はお祭りをやるのだが、一昨年、昨年は感染症対策として開催できず、今年が久々の開催となる。宋江陣はもう行われず、現在では朝に田都元帥を祀る儀式を行ったあとは、戯曲、布袋戯(人形を使った台湾の伝統的な戯曲)やカラオケなどで夜まで楽しむのだそうだ。
2.張聖宮宋江館 (台南市塩水区竹子脚竹埔里)
九天風火院から川を渡って2.5㎞ほど歩いたところ、法主真君を主祀とする張聖宮のそばにある。宋江館の壁には水滸伝中の登場人物である梁山泊の108人の姿が飾られている。2019年訪問時には修理中だったのだが今回はすっかりきれいになっていた。ここまで「宋江」を前面に出しているのなら宋江陣の情報もあるのではないかと期待したのだが……、訪れた時間がよくなかったようで(12時ごろに到着した)、隣の管理事務所内にいたただ一人の関係者(と思しき人)はお昼寝中。近所の人に話を聞こうと思ったが、暑さのせいもあるのか、なかなか人の姿を見ない。やむなく少し歩いてバス通りに出た。附近唯一らしき商店があったので飲み物を買い、お店の方に張聖宮の宋江館のお祭りはいつか尋ねてみた。すると、「よくわからないけど、もうやってないんじゃないか」とのこと。まだあきらめがつかないので、同じバス通りの少し離れたところで洗い物に出てきた方にもたずねてみたが、「(お祭りがあるかどうか)わからない」との回答。ううん、やはりもうやってないのかと思いつつ最後の望みをかけもう一度廟に戻るも、管理事務所の方は相変わらず熟睡。と、そこへ車の音が。すぐ近くの家に車が入り、ガレージで3人ほどが話をはじめた。邪魔をするのも気が引けてしばらく様子をうかがっていたのだが、これを逃せばもうチャンスはないのではと恐れ、思い切って話しかけてみた。すると、「旧暦6月7日に誕生日の拝礼をやっている」との答え。ただ、これ以上邪魔もできず、つっこんだ話は聞けなかった。
規模にもよるのだろうが、地域の廟の信仰の範囲というのは相当に狭い場合もあるのだろう。歩いて数十メートルのバス通り近辺の人は、張聖宮の名は知っていても祭りがあるのかどうかもはっきりわかっていなかった。あるいは近代化による伝統行事の衰退なのかもしれないが…。
3.永安宮宋江館 (台南市塩水区歓雅里)
張聖宮から3㎞弱歩いたところ。なにしろこの道を走るバスは一日5便なのだから歩くよりしようがない。
2019年訪問時のメモには、向かいの食堂で麺を食べたこと、お店の人がよくしゃべる人だったことが書いてあった。今回、訪問ルートを考えるうえでここを3つめの訪問地としたのは、ちょうど昼飯時に行けばまた話が聞けるかもしれないとも考えたからである。しかし、前の2か所で時間を使いすぎて到着が13時30分ごろとなり、ちょうど食堂の人がスクーターで走り去るところであった。ガジュマルの木陰の涼し気な食堂であったので、そこで昼食がとれなかったこと自体も残念。
永安宮は保生大帝を祀り、宋江館は小径を挟んだ脇に立っている。宋江館には人がいなかったので永安宮のなかにいた方に聞いてみたが、「もう宋江陣はないよ」とのお返事。あまりご機嫌もよくなかったようなのでお礼だけ述べて退出した。私が台湾語を話さないのもあまりお気に召さなかったようであった(まったくわからないわけではないのだが、地元の老人の会話についていくのは到底無理。「台湾語はできないのか」と言われていたのはわかった)。かつて台湾に住んでいたころは日常的に耳にしていたし、まあ単語レベルならなんとかなるだろうぐらいにぼんやりとしか考えていなかったのだが、そもそものレベルがたいしたことないうえに離れてから4年の間に当然記憶は薄れる。フィールドワークのまねごとをするつもりだというのに現地のことばをしっかり復習しておかなかったのは迂闊であった。慣れない手法をとるときには事前によくよく考えなければならない。考えて考えすぎるということはないのだから。
4.大荘天月宮宋江館 (台南市塩水区大荘里)
永安宮から1㎞弱歩いたところ。天月宮は媽祖を祀る廟で、宋江館は数十メートル離れたところにある。その隣には地区の活動センターがあり、そこに入ろうとしていた人に尋ねると、道の向かいの家に住んでいる人が廟守だからその人に聞くのが一番よいが、いまはたぶんお昼寝中で、14時30分ぐらいには起きるだろうと教えてくれた。そのとき14時少し前。ならば、状況次第で行くか行かないかを決めようと考えていた2㎞ほど離れた廟に行ってくればちょうどではないかと思い至り、お礼を述べて一旦離れた。
5.旧営天徳宮宋江館 (台南市塩水区旧営里)
永安宮、天月宮、天徳宮の近くには国道19号という広い道路が走り、バスの本数もさきほどまでの道より多いのだが、つごうのよい便はなかった。せいぜいバス停1つか2つ分だから歩いてしまえ、ということで結局歩いた。
天徳宮は玄天上帝を祀る。宋江館は百メートルあまり離れた場所で、天徳宮からは見えない。ここは地区の活動センターと完全に一体化していて、現代建築の集会所の奥に祭壇が設けられている。2019年には入り口が開いていてなかの様子をうかがうことができた。壁沿いに武器が立てかけられていて、ここは宋江陣の練習をしているのではとひそかに期待させられた。今回は入り口が閉ざされていて中の様子はわからず、人影も見えなかった。
もどって天徳宮に入るとそこには人がいて、お話をうかがうことができた。
いたのは廟守の方と近所の方で、近所の方々は順番にここへ来るようにしているのだという。田都元帥についてたずねると、旧暦6月16日、生誕の日にお参りをすること、宋江陣は「ずいぶんまえになくなった」ことなどを教えてくれた。こちらの方々は話し好きで、いろいろなことを教えてくれた。このあたりでいちばん盛大なのは4月15日(こちらは新暦。使い分けの基準はよくわからない)の玄天上帝の生誕日で、上帝が籠に乗って街に出るんだと、最近新調したばかりのピカピカの籠を見せてくれた。4月15日10時にはじまるからぜひ見に来なさいと言ってくださったのだが、残念ながら私は4月9日には台湾を離れてしまう。ここの方々の自慢のお祭りを見てみたかった。
大荘天月宮宋江館へもどる
気づけば14時30分をまわっていたので、せっかくの歓迎ムードのなか残念だが天徳宮を後にし、天月宮宋江館へ戻った。活動センターをのぞくと人が増えている。さきほど会った方もいたためすんなり入ることができ、あらためて来意を告げ、お話を聞かせてもらった。
田都元帥の生誕は旧暦6月24日、拝礼は行うがそれほど特別なことはしない。宋江陣ももうなくなっている。にぎやかなのは天月宮の媽祖の生誕のお祭りで、昼には拝礼があり、天月宮の前の広場で演劇を媽祖に奉納する。夜には路上にテーブルとテントを出してみんなで食事をする(台湾の各地の廟のお祭りでよく見る光景)。「おまえも食っていいんだぞ」とも言っていただいた。こちらでも地元の行事を楽しみにしている様子がうかがえた。
5か所再訪してあらためて思うに、廟やお祭りの維持にはそのコミュニティの規模が重要な要素なのだろう。こうあらためて書くと、なにをわざわざ何の変哲もないあたりまえのことを言っているんだという気もするが。国道19号にほど近い永安宮、天月宮、天徳宮は廟も壮大でいつも人がいるようになっていて、お祭りも盛大にやっているらしい。はじめに訪れた九天風火院は、大通りからは離れているもののすぐそばに住宅地が広がっていた。5つのなかでは張聖宮の周りがもっとも住宅が少なく、空地も少なくないうえ、少し離れたところに住む人はもう張聖宮とは別コミュニティという雰囲気すらあった。規模が小さければ集められるお金も少ないだろうし、祭りの規模も小さくなろう。宋江陣のように元気で動ける人が多数必要になる行事はまっさきにすたれてしまうのも道理というものか(宋江陣に関する限りは5か所ともになくなっているのだが)。そして、コミュニティが違えばもはや別世界というのがかつての農村文化だったようだ。たかだか2キロか3キロ歩いただけで、おなじ田都元帥でも誕生日が少しづつ違う。呼称は同じでも元になる物語に違いがあったり、伝承の過程で変化したりするのだろうが、わずか直径5kmあまりの範囲のなかで6月7日、11日、16日、24日とてんでばらばらであるのはおもしろい。あちこち見て回りたいこちらとしては、半月あまり滞在していれば4か所でお祭りを見られるわけだから便利なのだが(隣のコミュニティと祭礼の時期が重ならないようにする配慮という可能性もあるのだろうか。そうだとしても神の生誕の日をずらすということまではしないのではとも思う)。
6.中社田府元帥廟宋江館 (台南市学甲区済生路)
大荘天月宮を後にし国道19号に出ると、なんと折よくあと十数分でバスが来るらしい。ここでようやくこの日2度目のバス移動で10kmあまり離れた学甲区中社へ移動する。久々に乗るバスは快適である。途中で乗ってくる人も降りていく人もあり、さすが国道という感がある。
中社はさきほどまで回っていた地域と比べるとずっと大きな町である。お店が軒を連ね、車もたくさん走っている。この地の田府元帥廟は宋江陣を伝えているところで、一昨年の本欄でもここで撮らせてもらった宋江陣の練習の写真を掲載した。
16時過ぎに到着、田府元帥に線香をあげてお参りをすませてから、廟のまえのテーブルに集まっている方々にお話をうかがおうと声をかけた。
廟のなまえは田府元帥なのだが、ここの方々は一般に「宋江爺」と呼ぶ。「爺」は敬称である。旧社会では庶民がお役人やらお金持ちの旦那やらを呼ぶときにも使った。神といっても中国文化の土着信仰にはもとは人間だったとされる神が多いから、人間界の長者さまを呼ぶのと同じ敬称でいいのだろう。
こちらでは旧暦6月24日が宋江爺の生誕日で、5日間お祭りを行うのだという。なんとも盛大だ。では宋江陣はいつやるのですかと聞くと、それは慈済宮のお祭りに合わせてやるのだと教えてくれた。慈済宮とは三百メートルほど離れたところにある大きな媽祖廟である。距離はそれほど離れていないのだが、通りを挟むうえ、間に商店や住宅などが並んでいるためまったく別もののように感じてしまう。しかし、ここの宋江陣は本来慈済宮の媽祖の生誕のお祭りの際に行うもので、その一か月前から練習を念入りに行うのだという。つまり上述の“より大きな廟”の“より上位の神”の祭りの先駆けという形式を守っているわけである。今年のお祭りは4月30日であり、筆者の訪問日は4月7日であったから、この日の夜も練習があるということであった。よく見れば確かにそこにいる人々は武器につける飾りを作ったり、衣装や楽器を整えたりしているところであった。2019年訪問は4月6日で、今回の訪問がほぼ同じ時期になったのはまったくの偶然なのだが、おかげで2回とも宋江陣の練習を間近で見学する幸運に浴したというわけだ。
お話をしてくれたのは宋江陣の指導をする方で、ここの宋江陣の特徴、宋江陣を維持するための努力などをも語ってくれた。練習開始は19時だというし、準備も忙しそうなので、一旦辞去して19時近くに再来することにした。
7.田府元帥廟 (学甲区中洲西進里)
さて、練習開始まで1時間半ほど。ここで浮上したのが「ごはんどうするか問題」である。移動の多い旅では避けて通れないこの問題、思い起こせばガジュマル木の下食堂の昼食を逃して以来、食事のことはすっかり頭から飛んでいた。飛ばなかったところでお店もないのだからどうしようもなかったのだが。あ、そういえば廟でお話をうかがっているときにお菓子をすすめられたことがあったが、話をするのに必死でなにもいただかなかった。
ところで、ここから3kmほど離れた中洲というところにもう1か所、田府元帥廟がある。せっかくここまで来たのだから行っておきたいが…。
学甲は幹線道路が縦横に交わる地で、バスの路線も複数ある。もしかしたらうまいことバスに乗れるかもしれない…と時刻表を見比べてみたが、そうそうこちらの都合にあわせて走ってはくれない。ここで選択肢は2つ。
① こちらで食事をしてからバスに乗って中洲へ行き、バスで帰ってくる。ただ、19時を少し回ってしまうかもしれない。
② 中洲へ行き、廟を見てからあちらで何か食べて戻りのバスを待つ。
これまでさんざん歩いているので理想は①だが、16時30分という時間では食事の選択肢はまだ少ないし、宋江陣の練習開始に間に合わない可能性があるのも困る。ええい、ままよと歩きだした。
歩き始めてわかったこと……なんだかどんどんまわりが寂しくなっていく…。4年前は車だったので気づきにくかったのだが、中洲は街道沿いの比較的小さな集落であったようだ。廟の近くまで行くと2軒ほど店があったのだがどちらも閉まっていた。時間のせいか廟も閑散としていて、管理事務所に関係者の方がおひとりいるのみであった。
中洲恵済宮は恵福寺なるお寺も併設している、この規模の集落にしては大きな廟である。主祀は保生大帝で、奥には観音菩薩も祀られている。そこからバス通りを挟んで数十メートル行ったところに宋江館があるのだが、廟の戸は閉ざされていた。
特にお話をうかがえそうな方も見えず、食事もできそうにないのでもう戻るしかない。結局帰りも3km歩くことになった。
歩いた先にようやくありつけた虱目魚のスープと肉燥飯は五臓六腑に染みわたった。
ふたたびの中社田府元帥廟宋江館
18時50分すぎに中社の宋江館へ戻ると、すでに人が集まっていた。廟の看板の電飾が明滅し、広場の屋根にぶらさがる無数の提灯が赤く輝いている。
ここで4年前同様、たっぷりと宋江陣の練習を見ることができた。今回は台湾文化の取材であり、ビデオ撮影をすることも伝えていたため、遠慮なくカメラを回し続けた。
振り返れば一日あちこちをまわりいろいろな方々にお世話になったが、宋江陣を維持しているところはなかった。ここが今回唯一の生きた宋江陣である(正確にはこの隣のコミュニティでも同様に媽祖のお祭りにむけて宋江陣の練習をしている)。カメラを掲げつづける腕の痛みをこらえながらも赤い光芒の中で次々隊列を変えていく宋江陣をぼんやりながめていると、一日の最後がここでよかったという思いや、4年前といまとが交雑して記憶の世界へ迷い込んだかのような錯覚に陥るのだった。
………などと気障に決まればよかったのだが、最後にもうひとつ難関があった。終バス問題である。
今回は近くに宿をとっているわけでもなく、車もバイクもない。タイムリミットははっきり決まっている。せめて20時30分まで……と思い見続けていたが練習はまだまだ終わらず、予定時間を10分ほど超えたところで、ごあいさつもできないもどかしさに後ろ髪を引かれる思いでバス停へと駆けていかざるを得なかった。無念である。
*後日談
中社宋江館でお話してくださった師範のおなまえはうかがっていたので、帰国してから、お礼と、あいさつなく帰ってしまったお詫びとをしたためた手紙を出した。約半月後、LINEで返信が来た。現代風ですなあ。しかし、これで次回はきちんと時期を見定め、取材の約束ができる。あとは時間とお金、ですなあ。
June 6, 2023