特任助教 太田絵里奈
「1000のミナレット(尖塔)を持つ都」とも形容される、エジプトの首都カイロ。その悠久の歴史は様々な分野の研究者の関心を惹きつけてやまないが、魅力の一端は7世紀中葉より始まるイスラーム化に伴って、各時代に建設された宗教施設によって埋め尽くされた都市景観にも帰せられるだろう。著者が専門とするマムルーク朝期にも、スルターンをはじめとする為政者や都市エリートによって、モスクやマドラサなどの大規模な宗教施設が数多く建設された。だが、この写真を見てモスクの名前を瞬時に当てられる方がいるだろうか。
この写真は今年度(2024年度)のU-PARLのリーフレットにも掲載した、マムルーク朝末期のカイロに建設されたモスクの天井装飾である。名前は、ムズヒリーヤという。そう聞いて、「なんだ、あのイブン・ムズヒルか」と思われた方は間違いなくマムルーク朝研究者であるが、これは「あのイブン・ムズヒル」のモスク、ではない。
イブン・ムズヒルは、中世東地中海の覇権国家であったマムルーク朝が最後の輝きを放った15世紀末のスルターン・カーイトバーイの時代に、26年という長きにわたり文書庁長官という書記官僚のトップに立ち続けた人物である。本名はアブー・バクルといい、ムズヒルは彼の家名である。ムズヒル家はもともと現パレスチナ自治区のナーブルスという地方都市で書記や学者を輩出していた名家であったが、彼の父ムハンマドの行政手腕がのちのスルターン・ムアイヤドの目に留まり、15世紀初頭以降、中央政府で取り立てられることとなった。
カイロに居を移したムハンマドは絵に描いたような出世街道を歩んだが、急速な権力基盤の形成と蓄財が災いしたか、「成り上がり」と蔑む敵もいたようだ。苦しみに満ちた臨終の様子から、毒殺されたともいわれている。その息子のアブー・バクルは父とは真逆の融和路線を歩み、先代からの豊富な資金力に由来するパトロネージで懐柔するように敵対勢力を取り込んでいった。同時代学者の手になる評伝では一様に賛辞が寄せられており、ネガティブな評判が聞こえてこないことがかえって疑わしいほどだ。同時代の歴史書において「イブン・ムズヒル」といえば、まずこのアブー・バクルを指している。
アブー・バクル創建のムズヒル学院(カイロ・バルジュワーン地区)
アブー・バクルは「ムズヒリーヤ」と呼ばれるマドラサを中心とした複合施設をカイロのほか、メディナ、エルサレムにも建設した。カイロのムズヒリーヤはこの10年の間で激しく痛み、2022年夏の段階で主要な扉はすべて封鎖され、入場は叶わなくなっていた。このマドラサに設えられていたミンバル(説教壇)は、エジプトの50ポンド紙幣の図柄になっているキジュマース学院も担当した、アブドゥル=カーディル・ナッカーシュという名工の作だが、現況について近隣に聞き込みをしたところ、ミンバルのほか目ぼしい内部装飾は今年ギザにオープン予定の大エジプト博物館に移設され、中はもぬけの殻だという。かつてムズヒル家の邸宅が位置していた北側部分は家庭ゴミが積み上がり、かつての栄光を偲ばせるのはかろうじて残ったミナレットのみと、すっかり荒廃してしまっている。
冒頭の写真のムズヒリーヤは、このアブー・バクルのマドラサではない。彼の息子が市壁の外に建設したものである。息子の名もムハンマドといい、祖父、父と同じくエジプトで文書庁長官職に就任した、生まれながらのエリートである。だが行政官としての資質に欠けた上に政局を読み切れず、クーデターに加担したとして逮捕、財産没収を受け、拷問によってむごたらしく殺された。彼が死亡したヒジュラ暦910/1504-05年には、その兄弟たちもペストに罹患、あるいはムハンマド獄死の報に接して自殺するなど、次々と命を失い、ムズヒル家にとって呪われた年となってしまった。翌1505年夏、カイロ城改築のための建材という名目でムズヒル邸の大理石が剥ぎ取られたことは、同家の凋落を象徴する出来事であった。
しかし、ムズヒル家の名はむしろ、この息子によって現在までとどめられているといっても過言ではない。ムハンマドは当時すでに過密状態だった現イスラミック・カイロの中心部ではなく、市壁北側で開発途上にあったフサイニーヤ地区にモスクを建設した。現在、その外観の一部は当時のままで荒廃しているが、写真の通り内部は美しくリノベーションされ、金曜礼拝が行なわれる現役のモスクである。それに加えて「ムズヒル会館」なる集会場が新たに併設され、婚約契約に関わる儀礼も執り行なわれるなど、地域のコミュニティ・センターとしても活用されている。
ムハンマド創建のムズヒル・モスク(カイロ・フサイニーヤ地区)
このムハンマドの創建したモスクは父のマドラサと比較すると小規模で学界へのインパクトも薄く、マムルーク朝研究者としては、正直あまり見るべきところはない。だが、当時の中心部からわずかに離れた立地と、簡素な佇まいが幸いしたのか、破壊と略奪を免れた。当時から地味で目立たなかったが、開発に伴う人口の増加という実需に応えて建設された結果、今日までムズヒルの名が地域住民の記憶に残ることとなった。猛き者も遂には滅びぬ。ムズヒル家も例外ではなかったが、このモスクは廃れずに生き延びるための道を示しているように思った。
【参考文献】
太田絵里奈「後期マムルーク朝有力官僚の実像:ザイン・アッ=ディーン・イブン・ムズヒルの家系と経歴」、『史学』83/2-3号、2014年、37~81頁。
Erina Ota-Tsukada, “The Muzhir Family: Marriage as a Disaster Mitigation Strategy”, Orient 54, 2019, pp. 127-144.
9.Sep.2024