ブヘイラのベドウィンから〈共有〉を考える

熊倉 和歌子
早稲田大学イスラーム地域研究機構 研究助手

 

第2回となるU-PARLシンポジウムのキーワードは、〈共有〉であった。実はこのテーマの設定には、ほんの少しだけ執筆者も関わっている。今回、このシンポジウム報告の執筆者として私に白羽の矢がたったのも、きっとそのような背景があってのことだろうと思う。なので、まずは、このテーマに寄せる私の関心から述べることにしよう。

U-PARLではシンポジウムを開催するにあたって、1年くらい前から少しずつ準備をはじめるが、その最初にして最も重要な作業がテーマ設定であることは言うまでもない。ミーティングのなかでは、研究員がそれぞれのアイデアを振り絞って、意見を出し合い、それおもしろいね、とか、それは次の次くらいのテーマにしよう、とかいいながら方向性を見極めていく。U-PARLのミーティングの特徴は、そこに出席した人みんなに平等に発言権があり、その権利を皆十分に行使して、納得がいくところまで議論することである。そのため、話し合いはときに長時間におよぶ。予期せぬような長丁場になれば、研究員たちは当然疲れ果てる。しかし彼らは居酒屋に直行するようなことはない。どうしたら、ミーティングを効率的におこなうことができるか、というテーマでまた議論がはじまり、盛り上がる。体力的にも精神的にもタフさが求められはするが、自由な議論の場が自然と存在しているところがU-PARLのよさであったと思う。「あった」としたのは、U-PARLが変わってしまったためではなく、私が昨年度にU-PARL特任研究員の職を離任したためである。以下は、異動前に話し合われたシンポジウムのテーマの頭出しにおいて、私が話したことである。もはや記憶もおぼろげなので、相違点も多々あるかもしれないが。

私の専門は、中東・北アフリカ地域、特にエジプトの中近世社会経済史である。公権力と民衆のあいだの支配=被支配の構造に興味があり、これまで中世において主従関係を結びつける媒介となった土地に関わる制度(イクター制)や、その根本にあるナイルの水利行政・灌漑に関わる制度についての研究をおこなってきた。研究の主史料は文書史料であるので、研究の実質的作業のほとんどは文書館を基地としておこなっている。しかし、実際の農地や水、そこに住む人々を見ずして真の理解は得られないという考えから、文書館の休館日にはフィールドワークに出るようにしている。ここ最近は、デルタ地域の西部に位置するブヘイラ県の法廷台帳(オスマン朝期のシャリーア法廷台帳)を読んでいたこともあり、またそこで調査を進められている考古学の長谷川奏先生のお誘いもあって、先生に面倒を見ていただきながら2015年の夏に、2日間かけてブヘイラ県をぐるりと周った。

ブヘイラ県は、地中海沿岸部に3つの潟湖をもち、西方には広大なリビア砂漠を擁する。そのため、岐阜県ほどの面積であるこの地域のなかでも、北は地中海性気候だが、砂漠周辺は砂漠気候であり、環境が大きく異なるのが特徴である。中世においては、南部のナイル支流に近い地域は秀逸な穀倉地帯として知られていたが、潟湖や砂漠付近は農地としての利用は難しく、開発が遅れた地域であった(本格的な開発がはじまるのは20世紀以降)。そのような理由ゆえであろう、中世以来、この地域はベドウィンたちの活動拠点となっていた。これまで、ベドウィンというと、社会の外縁をたむろう人々として捉えられることが多かった。確かに、中世以来、上エジプト(カイロ以南の地域の総称)のベドウィンの多くは公権力に対して反抗的であり、その権力に緩みが見られると、すぐさま反旗を翻した。そのため、歴代の統治者は上エジプトの平定に手を焼いたのであった。しかし、それとは対照的に、ブヘイラのベドウィンたちは、平時には、公権力と比較的良好な関係をむすんでいた。彼らは、スルターンからイクターを授与され、土地徴税権を得る代わりに、有事における軍事奉仕が義務付けられており、とりわけ地方統治における重要なアクターの一つであった。オスマン朝との戦争のさい、戦力補強のために動員されたのもブヘイラのベドウィンたちであった。

マムルーク朝の敗北が決定的となったマルジュ・ダービクの戦いで戦死した兵士のなかにも、ブヘイラのベドウィンたちが多くいたにちがいない……などと想像しながらブヘイラの農村をまわっていると、あることに気がつく。運河沿いにぽつぽつとテントが張られていることや、遺跡の敷地内にもテントが張られていることである。実は、ブヘイラは、今でも、テント暮らしのベドウィンが数多くいる地域なのである。カイロ近郊ではさすがに見られない光景を目の当たりにして、私は彼らの生活を成り立たせている社会についてもっと知りたいと思った。これまでは、土地を与えられた人々について考えてきたが、中近世において土地を持たない人の暮らしはいかなるものであったのか。例えば、遊牧というものを考えたとき、羊たちに食わせる必要があるわけだが、中央ユーラシアの草原地帯と異なり、エジプトの場合、植物が生育する地域はナイルの水がおよぶ地域か、地下水源のあるオアシスに限られる。加えて、そのような耕作可能地は、イクターとして分与されるなどして、誰かしらの権利地になっていた。では、放牧地をもたないベドウィンたちはどのようにして羊たちを養っていたのであろうか。彼らでも、放牧のために立ち入ることが許された土地があったのであろうか。

この問題を考えたときに真っ先に思い浮かんだのが、イギリスのコモンズや、日本の入会であった。いずれも近隣の住民が、肥料や木材などを調達する場として受益していた空間を指すが、果たして、このような空間はエジプトにもあったのであろうか。無論、エジプトの場合と、イギリスや日本の場合では、そのような空間が成立する諸条件が異なるため、同類のものを見出すことはできても、具体的に見れば内容に相違があるに違いない。例をあげれば、イギリスとエジプトでは土地保有のあり方が異なる。イギリスの場合は、封建領主が管理する領地内にコモンズが設定され、領地内に住む人々がその恩恵を受けた。つまり、領主の私有地のうち、用益権が開放された場所がコモンズであった。他方、エジプトの場合、イクターは徴税権にすぎず、所有権ではなかったし、イクターを分与された支配層はその土地の住民を支配する権限を持たず、かつ、カイロなどの都市に居住したため、イクターとして授与された土地の管理は間接的なものであった。したがって、エジプトの場合は、土地の上には所有権・徴税権・用益権が重なり合うことになり、イギリスのコモンズよりも権利構造が複雑であった。他方、入会は、村有地や藩有地のなかで村落共同体の成員が受益・管理していた土地に由来するが、受益者に村落共同体の外部の者を想定していない点は、遊牧民が社会の一般的な構成員として存在するエジプトと異なる点である。それでは、ベドウィンたちの遊牧生活を可能にしていた土地や仕組みは一体どのようなものであったのか。エジプト的「コモンズ」なるものが存在したのであれば、それはいかなるものであったのか。

ブヘイラの田舎でぼんやりと思い浮かんだこの疑問は思いもかけず、アジア研究図書館の構想の問題にもリンクした。「コモンズ」という概念について考えはじめたときに脳裏に浮かんだのは、とあるロゴであった。アジア研究図書館は、東京大学が打ち立てた新図書館計画の一環として準備が進んでいるが、その新図書館計画のロゴには、小さい文字で「ACADEMIC COMMONS」という語が入っている。そう、ここにも「コモンズ」があったのである。そこで、新図書館計画のウェブサイトを見ると、次のように説明されている。

東京大学は教育と研究のための新たな拠点として、本郷キャンパス総合図書館を大幅に拡充する東京大学新図書館計画「アカデミック・コモンズ」を推進します。これは、図書館前広場の地下に新館を建設し、伝統ある本館は外観を保存したまま内部を全面改修する、というものです。次の世代に受け継ぐ、新学術拠点の建設。その実現に向けてさまざまな取り組みが始まっています。

素直に読むと、「アカデミック・コモンズ」とは、「図書館前広場の地下に新館を建設し、伝統ある本館は外観を保存したまま内部を全面改修する」こと、と取れるが、いや、そうではないであろう。むしろ、「新学術拠点の建設」が計画の目ざすところと思われる。また、同ウェブページで案内されている『図書館の窓』Vol.55, 増刊号 (2016.4)[PDFファイル:11.2MB]を見ると、新館地下1階の「ライブラリープラザ」がヴィジュアル的に説明されている。グループワークや学術イベントのために利用できる広い空間—そこには一切、壁がない—をつくり、学術交流の場とするというのが、「アカデミック・コモンズ」の目玉の一つであることがわかる。

しかし、「コモンズ」という語をつけるからには、空間的改造以上の何かがあるに違いないと期待したくなる。例えば、この「コモンズ」の受益者はどこまでの広がりをもつのか。私のように、東京大学のOBでもなければ職員でもない。けれど、研究においては同大学の蔵書にはいつもお世話になっているし、研究会などで利用させてもらうことも多い。そのような人間には、受益の権利はあるのか、権利があるという場合はどのような制度的仕組みが設定されるのか。その根本にある「コモンズ」という概念を、東京大学附属図書館、そしてアジア研究図書館はどのように考えるのか。アジア研究図書館はどこまで開かれ、どのような制度的仕組みを運用するのか……。

ここまでの話が、私がテーマの頭出しのさいに述べたことである。まもなくして私は他大学へ移籍したため、その後どのような話し合いがなされたかについては関知していないが、冒頭に述べたような喧々諤々の議論を経て昇華されていったのに違いない。『むすび、ひらくアジア2:アジアの〈共有〉・知の〈共有〉』というタイトルにある通り、本シンポジウムは2014年度に行われたものに続き第2回目のものであった。ハブ的拠点となりアジアとアジア研究を「むすぶ」ことの重要性が示された第1回シンポジウムに対し、今回のシンポジウムは、まさに、いかに「ひらく」かという問題に果敢に挑戦したものとなった。講演者と演題は下記の通り。

・趣旨説明
冨澤かな(U-PARL)「アジアを巡る「共有」をアジアの中から考える」

・講演
増田知之(安田女子大学文学部)「近世中国における「法帖」の刊行・流通と書文化の変容について」
三浦徹(お茶の水女子大学)「イスラーム地域における知の獲得と利用――ウラマーとマドラサと図書館」
原正一郎(京都大学東南アジア地域研究研究所)「地域研究情報基盤による「地域の知」の蓄積・共有・利用の事例について」
久留島典子(東京大学附属図書館、史料編纂所)「日本における「知」の蓄積と共有――日本史史料の所蔵のあり方から考える」

これらは、近日中に東大TVで公開される予定とのことであるため、ここでは、駄文でもって、これらの講演一つ一つについて要旨をまとめるような愚かなことはしない。以下、私の感じたことを自由に述べていこうと思う。最初の増田氏による法帖の話は、現代の私たちの書きもの文化にも当てはめることができる。氏によれば、明清時代、それまで文人のあいだで流通していた法帖が、刊行事業が推進されたことによって、民間に流布するようになったが、その結果、法帖の質的低下が招かれたという。この状況は、書かれたものが流布するには出版という一定の質的保証が求められた時代から、インターネットを通じて誰でも自由にものを書き、世界中に配信できる時代に移行して久しい私たちの社会にも起こっている。東京大学平成26年度教養学部学位記伝達式での式辞や今年度の同大学学部入学式での総長式辞で述べられたように、学問の世界では情報の質が常に問われていることは言うまでもなく、情報の質を保ち・向上させていくためにいかなる努力が必要であるかを考えていく必要がある。中国の場合は清廷による上からの「書文化支配」によって、法帖の質的保証が回復されたわけであるが、この点においても、現代の問題と重なり合うところがある。しかし、私たちの場合は違うかたちで実現されなければならない。開かれることと、質を保つことの両立はいかに成立させることができるのか。

中国の状況と対照的であったのがイスラーム地域の学知のあり方である。三浦氏は、イスラーム地域では学知は共有されるべきものであるという考えが社会の前提にあるため、シンポジウムのテーマのなかの「知の〈共有〉」という表現に違和感を感じたと吐露した。イスラーム地域においては、ワクフと呼ばれる寄進制度を通じて、クッターブ(コーラン学校)やマドラサ(学院)が建設された。マドラサなどで特定の師に師事し、特定の書の修学が認められると、イジャーザと呼ばれる教授資格が与えられた。さて、イスラーム地域においては、その人物の学者としての質を判定する場合に、このイジャーザを誰から授けられたかが重要となった。名だたる人物からのイジャーザであれば当然、洽覧深識の学者と見られようが、そうでない場合はアヤシイ学者と見なされないこともなかった。イスラーム地域では、知は開かれたものでありながら、イジャーザというパーソナルな鎖が、知の氾濫に一定の歯止めをかけたであろう。このことは、インターネット社会におけるアノニマスな文化と対照的である。

比較の観点から興味深かったのが久留島氏の論じた日本の事例である。氏によれば、古代・中世においては寺院を中心としていた知—久留島氏はここでの知を漢籍・仏典・和書などの典籍とする—の集積は、中世後期から近世を通じて、「家」を中心とした場に移行していったという。この状況は、学問の伝授がパーソナルなネットワークを通じて継承されたイスラーム地域と対照的に映る。日本の場合は、「家」が知の質を担保してきたと言える。後に少し触れるが、このような知の継承の仕方は、日本の大学にも受け継がれているように思われる。もちろん、日本の大学の場合は、「家」が「研究室」に置き換わった形をとっているわけであるが。

このようにして、中国・イスラーム地域・日本の事例を並べると、それぞれにおける知の〈共有〉のあり方の特徴が浮き彫りになる。それでは、アジア研究図書館は、これらの報告を踏まえ、どのような知の〈共有〉を目指せばよいのであろうか。その一つの道を具体的に示したのが原氏の報告であった。氏の報告では、専門知識がなくともデータベースを作成でき、公開まで持っていくことができるデータベース構築・公開システムであるMyデータベースが紹介された。知の〈共有〉ということでは、各自が取りためたデータはこのような形で再利用されていくことは理想的である。多くの文系研究者は、大量の資金(この資金源には税金も大量に含まれるわけだが)を投入して資料やデータを収集するが、それらの多くは、いわば持ち主である研究者と運命を共にし、研究者が引退してしまえば、再び利用されることはほとんどない。もしも、それらがデータベースとしてまとめられていれば、先人たちの労力が未来の知となって輝くこともあるかもしれないのであるが、そうでない以上、日の目を見ることはない。少なくとも自分が携わっている歴史学において、個人レベルでのデータベースの公開は一般的ではない。その理由には、データベース作成にはお金と労力がかかるという先入観があることがあげられるが、より根本的には、自分のあつめたデータ=自分のもの≠共有物という考え方が根強くあることによるように思われる。そうであれば、いくら使い勝手のよいデータベース構築・公開システムがあったところで、データの共有は進まないのではないか。

そして同じことがアジア研究図書館への図書の供出の問題にも当てはまる。アジア研究図書館には、学内のアジア関連図書をできるだけ集約して蔵書の核とすることが計画されている。実現にはさまざまな課題があろうが、しかし、大学における知の質を維持あるいは向上させていくためには、より広い枠組みでの知の〈共有〉がなされてゆくことが必要と思われる。アジア研究図書館は関係部局の協力なしには成立しないし、関係部局にとってもアジア研究図書館は研究の場としての重要性を帯びてくるはずである。

これらの問題を、「コモンズ」に立ち戻って考えてみよう。「コモンズ」が成立する条件として、価値をもつものを共有することはもちろん必須であるが、それと同様に重要になってくるのが、協力(collaboration)と意思疎通(communication)であると思う。これらがなければ、そもそも何かを継続して〈共有〉することはできないことは、ハーディンの「コモンズの悲劇」論が示すところである。今後、アジア研究図書館の開館にあたっては、双方向的な意思疎通と関係各所との協力関係を構築していくことが重要となる。それにおいては、東京大学におけるバランスのよい私と公のあり方を模索していく必要がある。

最後に、ブヘイラのベドウィンの話に戻ろう。ブヘイラの暖かな日差しに包まれながら考えた日から、法廷台帳のなかにエジプト的「コモンズ」空間を知る手がかりがないか探している。法廷台帳という史料の性格ゆえ、訴訟がなければ記録に残らないのであるが、自分が専門とする17,18世紀のあいだは、エジプト的「コモンズ」空間の具体的情報を含む訴訟記録はほとんど得られていない。おそらく、彼らは河川敷や沼沢地などの土地権利が曖昧な場所を選んで、そこにテントをはり、生活を営んでいたにちがいない。訴訟記録にないということは、それに対して村落の居住者たちは特に問題視しなかった、あるいは問題が生じた場合には当事者間で解決を図ったのであろう。村落の居住者にとっても、ベドウィンたちの存在は不可欠だったのかもしれない。例えば、乳や食肉などは彼らから得ていたかもしれない。そのような互恵関係も容易に想像できる。

ところが、19世紀に近づくと状況は一変するのである。その時代の法廷台帳には、ベドウィンたちがブヘイラの県庁所在地に住む人々を襲撃した事件や、軍人以外の人間が武器を携行して馬に乗ることを禁じるお触れなどが頻出し、なんとも不穏な様相を呈しているのである。なぜ、この時代にそのような変化が見られるのか。推測の域を出ないが、それは、この時代に推進された所有権の確定とも関係があるのではないかと考えている。政府の土地政策のもとで、所有権が曖昧であった土地も誰かの所有物として表札が掲げられるようになった結果、ベドウィンらが受益できるような土地が減少し、彼らは社会の外縁へと押しやられていったのではなかろうか。さらに、エジプトでは1822年に国民徴兵制が開始されるが、ベドウィンたちはこれに強く反発し、武装闘争を展開した。この武装闘争は当局との和平条約の締結によって収束したが、1880年代に成立した治安立法において、ベドウィンは「定住せず定食を持たぬ浮浪の民」として定義され、以後、「国民国家」体制から排除された、社会の外縁を漂う存在となって今に至っている[i]

さて、ハーディンの「コモンズの悲劇」論は、よそ者の存在が「コモンズ」を崩壊に導く例としてしばしば取り上げられてきた。しかし、最近では、よそ者が「コモンズ」の価値を高めるアクターとして注目され、「コモンズ」のメンバーシップの多様性の必要性が主張されはじめているのである。「コモンズ」において、よそ者は、突然やってきては、意識的あるいは無意識的に暗黙のルールをかき回すように振る舞うため、厄介者扱いされることが多いが、見方を変えれば、よそ者が存在するからこそ「コモンズ」に賑わいがもたらされ、活性化するのである[ii]。例えば、里山の例では、村落共同体における担い手の不足により、その維持が難しくなっているが、他方で「田舎暮らし」を志向する都市からの移住者が里山の価値を再評価するという現象が見られる。このように、よそ者は、「コモンズ」の潜在的価値を外部に伝える役割を果たし、それによって「コモンズ」の価値がさらに高められるのである。このように考えると、アジア研究図書館が世界水準の研究図書館となるためには、よそ者をいかに取り込んでいくかが鍵になってくるのではないか。思い切って私のようなベドウィンでも、ある程度の自由さをもって利用できる、門戸の開かれた図書館づくりを目指していってほしいと切に願う。

[i] 加藤博「国民軍の編成と遊牧民反乱—エジプト近代史における陰画としての遊牧民—」『地中海論集:論文集』12 (1989), pp. 11-20.
[ii] 細野助博・風見正三・保井美樹編『新コモンズ論—幸せなコミュニティをつくる八つの実践—』中央大学出版部,2016, pp. 20-22.